「喜連川騒動」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
rv sockpuppe利用者:喜連川一色家 保護解除されたのをいいことに…… |
|||
1行目:
{{編集前の注意}}
'''喜連川騒動'''(きつれがわそうどう)とは、[[正保]]4年([[1647年]])に[[喜連川藩]]で起きた、藩内の争いによる藩政の混乱のことである。
28 ⟶ 27行目:
*「江戸幕府老中奉書 慶安元年11月18日付」(阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙)
:「'''喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。藩主の息子である梅千代(4代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ'''」(要約)<ref>『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P65による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。</ref>
== 近代以降にまとめられた文献 ==
[[慶安]]元年([[1648年]])春、脱藩浪人となった尊信派の老臣高野修理が、5人の[[百姓]]と密かに藩を抜け出し、[[江戸幕府|幕府]]に「[[家老|城代家老]]<ref>「城代家老」は『喜連川町誌』の表現による。当時喜連川藩に城はあったものの、火災と快便性のために山下に館を設けており、藩主は常時ここに在したため、実質的には「筆頭家老」である。</ref>一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と[[直訴]]に至った。<ref>『喜連川町誌』では、3代尊信の正室([[那須資景]]の娘)の子万姫(8歳)もこの直訴に加わったとされているが、『喜連川郷土史』ではこのことは記載されていない。</ref>
事件の現地調査に当たった幕府御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰って、「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」と報告した。幕府御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の3名であった。喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名は、事件後の[[家老#一代家老|一代家老]]となった<ref>誰の家老かは明記されていない。</ref>。
幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが、このときは[[大老]][[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]・[[老中]]の[[松平信綱]]・[[阿部忠秋]]・[[阿部重次]]の4人が特別にその審理に参加し、評定役には[[酒井忠吉]]・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たった。酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟で、高家[[吉良義冬]]の義父であり、訴えられた一色刑部と同じく足利家の親族であった。
120 ⟶ 43行目:
この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。
忠臣として記述されている尊信派の中で、二階堂又市だけは喜連川騒動事件の
== 脚注 ==
|