「プロレタリア独裁」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
11ChamOK (会話 | 投稿記録)
7行目:
[[画像:Barricade18March1871.jpg|thumb|200px|left|[[パリ・コミューン]]]]
[[画像:Trotsky_Profile.jpg|thumb|200px|left|[[レフ・トロツキー]]]]
[[カール・マルクス]]は、[[1848年]]の[[1848年革命#ドイツ3月革命|ドイツ革命]]で、[[革命]]勢力が敗北したプロセスを観察し、革命勢力が[[立法]]権のみの掌握にとどまり、それを執行する実体的な[[権力]]([[行政]]権や[[軍事]]力)を掌握しなかったために旧支配階級の[[反革命]]を防げなかったことに敗因の一つを見て、[[革命]]の過渡期における'''「[[労働者階級]]による権力掌握」「[[プロレタリアート]]の政治支配」'''の必要性を強調した。マルクスはその後の[[パリ・コミューン]]においてその政治形態の端緒を発見した。ここから、立法権だけでなく行政権をふくめたすべての権力を労働者階級が掌握すること──これを比喩するため、立法権も行政権も掌握した[[共和政ローマ]]の[[独裁官]](ディクタトル)になぞらえ、「プロレタリアートのディクタトゥーラ(プロレタリア独裁)」とよんだ。マルクス主義の見解では、[[資本主義]]社会は、形式上は[[三権分立]]していても、[[ブルジョワジー]]が階級としてこの全権を握っているブルジョワ独裁であるとみなす(ブルジョワジーのディクタトゥーラ)。これに対置してプロレタリアートのディクタトゥーラを提唱した。プロレタリアートの独裁は、社会の圧倒的多数を占めるプロレタリアートの、極めて少数であるブルジョワジーに対する独裁であるため、実態としては「ブルジョワ独裁」に他ならない「ブルジョワ民主主義」体制よりも、[[民主主義]]的であるとマルクスやその後継者たちは主張した。
 
:<small>なお[[日本共産党]]は[[1973年]]より「ディクタトゥーラ」を「独裁」ではなく「執権」と訳している。詳細は[[#日本共産党|日本共産党]]参照。</small>