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'''マニュエル・オランテス'''('''Manuel Orantes''', [[1949年]][[2月6日]] - )は、[[スペイン]]・[[グラナダ]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。[[1970年代]]から[[1980年代]]前半にかけて活躍し、[[1975年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]男子シングルスで優勝した。左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス33勝、ダブルス22勝を挙げた。身長177cm、体重75kgで、男子テニス選手としてはやや小柄な体格だった。
 
オランテスが登場する前、[[スペイン]]の男子テニス界は[[マニュエル・サンタナ]]が君臨していた。サンタナは[[1960年代]]に[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]で「4勝」を挙げた名選手である。そのサンタナの後に続く選手として、オランテスが活躍を始めた。[[1968年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[スペイン]]代表選手となる。[[1969年]]、オランテスは20歳の時に地元[[スペイン]]・[[バルセロナ]]の大会で男子ツアー初優勝を飾る。[[1972年]]頃から彼は世界のトップレベルに躍進し、[[1973年]]に世界ランキングを自己最高の2位に上げた。[[1974年]]の[[全仏オープン]]で、オランテスは初めて[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の男子シングルス決勝に進出したが、当時18歳になったばかりの[[ビョルン・ボルグ]]に 6-2, 7-6, 0-6, 1-6, 1-6 のフルセットで逆転負けを喫した。最初の2セットをオランテスが先取した後、第3セット以後は若きボルグが一方的な試合展開を進め、オランテスは全仏オープンでは準優勝に終わった。彼のテニス経歴で最大のハイライトは、[[1975年]]の[[1975年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で訪れた。この決勝戦で、オランテスは大会2連覇を目指した[[ジミー・コナーズ]]を 6-4, 6-3, 6-3 のストレートで圧勝し、4大大会初優勝を飾った。この年は男子ツアーでも年間10勝を挙げ、[[1976年]]にも年間7勝を記録している。[[1977年]]には[[日本]]の「[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]」で優勝した。