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[[ファイル:Maria Theresia IsabellaTeresa d'Austria 1816 1867 portrait-Teschen.jpg|thumb|right|200px|両シチリア王妃マリーア・テレーザ王妃]]
[[ファイル:Maria Theresia Isabella Austria 1816 1867 portrait.jpg|thumb|right|マリーア・テレーザ王妃、1835年頃]]
'''マリーア・テレーザ・イザベッラ・ダズブルゴ=テシェン'''(Maria('''Maria Teresa Isabella d'Asburgo-Teschen''', [[1816年]][[7月31日]] [[ウィーン]] - [[1867年]][[8月8日]] [[アルバーノ・ラツィアーレ]]、[[イタリア]])は、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|オーストリア皇帝家]]の分家である[[チェシン公国|テシェン公爵家]]の公女で、[[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]の2目の王妃。[[ドイツ語]]名は'''マリア・テレジア・イザベラ・フォン・エスターライヒ'''('''Maria Theresia Isabella Erzherzogin von Österreich''')
 
== 生涯 ==
[[オーストリア皇帝]][[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の弟[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|テシェン公カール]]と妃[[ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク|ヘンリエッテ]]の娘として、[[ウィーン]]で生まれた。[[ドイツ語]]名は'''マリア・テレジア・イザベラ・フォン・エスターライヒ=テシェン'''(Maria Theresia Isabella von Österreich-Teschen)。フェルディナンド2世の祖母である[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド1世]]の王妃[[マリア・カロリーナ・ダズブルゴ|マリア・カロリーナ]]は大叔母、フェルディナンド2世の父[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ1世]]の最初の妃[[マリーア・クレメンティーナ・ダウストリア|マリア・クレメンティーナ]]は叔母に当たる。
[[オーストリア皇帝]][[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の弟[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|テシェン公カール]]大公と、その妻でナッサウ=ヴァイルブルク侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ナッサウ=ヴァイルブルク侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の娘である[[ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク|ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ]]の間の第1子、長女として生まれた。1829年に母が亡くなったため、少女時代から5人の弟妹たちの母親代わりとなった。1834年から1835年までは、[[プラハ]]にあるテレジア会女子修道院の修道院長を務めた。
 
1837年1月27日に両シチリア王[[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]と結婚した。フェルディナンド2世は早世した最初の妻[[マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア|マリーア・クリスティーナ]]との間に王太子フランチェスコ([[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]])をもうけていた。マリーア・テレーザは王妃としての風格・威厳には欠ける女性で、宮廷での社交生活を嫌って針仕事や自分の子供の世話にばかり関心を向けていた。夫および継息子の王太子フランチェスコとは仲が良く、王太子とは実の母子同然の絆で結ばれていた。
1837年1月27日にフェルディナントと結婚、12子を生んだ。
*[[ルイジ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1838-1886)|ルイージ]](1838年 - 1886年) トラーニ伯、[[バイエルン公 (Herzog in Bayern)|バイエルン公爵夫人]][[マティルデ・イン・バイエルン|マティルデ・ルドヴィカ]](オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]の妹)と結婚。
*アルベルト(1839年 - 1844年) [[カストロジョヴァンニ]]伯
*[[アルフォンソ (カゼルタ伯)|アルフォンソ]](1841年 - 1934年) [[カゼルタ]]伯。従妹にあたる両シチリア王女アントニエッタと結婚。
*[[マリア・アンヌンツィアータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン|マリーア・アンヌツィアータ]](1843年 - 1871年) [[オーストリア帝国|オーストリア]]大公[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]妃。[[フランツ・フェルディナント大公]]の母。
*[[マリア・インマクラータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン|マリーア・インマコラータ]](1844年 - 1899年) [[トスカーナ大公国|トスカーナ]]大公子[[カルロ・サルヴァトーレ・ダズブルゴ=トスカーナ|カルロ・サルヴァトーレ]]妃
*[[ガエターノ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|ガエターノ]](1846年 - 1871年) [[アグリジェント|ジルジェンティ]]伯。[[スペイン]]王女[[イサベル・フランシスカ・デ・ボルボン|イサベル]]([[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]の長女)と結婚。[[インファンテ (称号)|スペイン王子]]の称号を得る。
*ジュゼッペ(1848年 - 1851年) [[ルチェーラ|ルチェラ]]伯
*[[マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|マリーア・ピア]](1849年 - 1882年) [[パルマ公国|パルマ及びピアチェンツァ]]公[[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]妃
*ヴィンチェンツォ(1851年 - 1854年) [[メラッツォ]]伯
*パスクアーレ(1852年 - 1904年) ブランシュ・マルコネと[[貴賤結婚]]
*[[マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|マリーア・ルイーザ]](1855年 - 1874年) パルマ公子・[[バルディ]]伯[[エンリコ・ディ・ボルボーネ=パルマ (1851-1905)|エンリコ]](ロベルト1世の弟)妃
*ジェンナーロ(1857年 - 1867年) [[カルタジローネ]]伯
 
マリーア・テレーザは夫の助言者の役割を果たして国政にも関与し、公的な会議に出席できないときはドア越しに首脳たちの会話を盗み聞きした。彼女は夫の死後も継息子フランチェスコ2世に対して政治的な影響力を及ぼした。王太后の絶対主義的な政治方針は国民の間に不満を募らせ、[[シチリア・ブルボン朝|ブルボン=シチリア家]]による[[南イタリア]]支配が転覆させられる要因の一つになったと考えられる。
末子誕生から2年後の1859年に夫と死別後、マリーア・テレーザは1867年に[[アルバノ]]で没した。
 
[[千人隊]]によるシチリア遠征が起きると、マリーア・テレーザは子供たちと側近たちを連れ、フランチェスコ2世夫妻より一足先に国外へ避難した。王太后は最初は[[ガエータ]]に、その後[[ローマ]]に逃れ、教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]の保護を受けて[[クイリナーレ宮殿]]に落ち着いた。フランチェスコ2世夫妻もガエータ要塞の陥落後に合流した。
{{DEFAULTSORT:まりあ てれさ}}
 
[[Category:ハプスブルク=テシェン家]]
1867年、ローマ郊外の[[アルバーノ・ラツィアーレ]]で[[チフス]]により亡くなった。
 
== 子女 ==
夫フェルディナンド2世との間に12人の子女をもうけた。
*[[ルイジ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1838-1886)|ルイジ]](1838年 - 1886年) - トラーニ伯
*アルベルト(1839年 - 1844年) [[ - カストロジョヴァンニ]]
*[[アルフォンソ (カゼルタ伯)|アルフォンソ]](1841年 - 1934年) [[ - カゼルタ]]。従妹にあたる、カラブリア公、両シチリア王女アントニエッタと結婚。家家長
*[[マリア・アンヌンツィアータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン|マリーア・アンヌツィアータ]](1843年 - 1871年) [[ - 1862年、オーストリア帝国|オーストリア]]大公[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]妃。[[フランツ・フェルディナント大公]]の母。と結婚
*[[マリア・インマクラータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン|マリーア・インマコラータ]](1844年 - 1899年) [[ト - 1861年、オーカーナ大公国|トリア=トスカーナ]]大公[[カルロ・サルヴァトーレ・ダズブルゴ=トスカーナ|カルロ・サルヴァトーレ]]と結婚
*[[ガエターノ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|ガエターノ]](1846年 - 1871年) - ジルジェンティ伯
*ジュゼッペ(1848年 - 1851年) [[ - ルチェーラ|ルチェラ]]
*[[マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|マリーア・ピア]](1849年 - 1882年) [[1869年、パルマ公国|パルマ及びピアチェンツァ]]公[[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]と結婚
*ヴィンチェンツォ(1851年 - 1854年) [[ - メラッツォ]]
*パスクアーレ(1852年 - 1904年) ブランシュ・マルコネと[[貴賤結婚]] - バーリ伯
*[[マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|マリーア・ルイーザ]](1855年 - 1874年)  - 1873年、パルマ公子・[[バルディ]]伯[[エンリコ・ディ・ボルボーネ=パルマ (1851-1905)|エンリコ]](ロベルト1世の弟)妃と結婚
*ジェンナーロ(1857年 - 1867年) [[ - カルタジローネ]]
 
{{DEFAULTSORT:まりあ てれさ あすふるこ}}
[[Category:両シチリアの王妃]]
[[Category:ハプスブルク=テシェン家]]
[[Category:1816年生]]
[[Category:1867年没]]