「キャサリン・マッキノン」の版間の差分

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外部リンク削除。日本革命的共産主義者同盟の関係者の見解に過ぎない。ナディーン・ストロッセンらを一方的に批判している点も不適切。
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==人物==
キャサリン・マッキノンは、[[1946年]][[10月7日]]に、[[アメリカ合衆国]][[ミネソタ州]]に生まれ。父親の[[ジョージ・E・マッキノン]]弁護士であり、1946年から1949年にかけて下院議員をつとめていた
 
[[エール大学]]ロースクールで弁護士資格を取得後、1970年代半ばより、法学者の[[アンドレア・ドウォーキン]]らと共に、[[セクシャルハラスメント]]という概念を明確化させ、法規制を求める運動を行った。また同時に、女性の人権を侵害し、性犯罪を助長するものだとして、[[ポルノグラフィ]]に対する法規制を求める運動も行った。[[1982年]]には、ミネソタ州ミネアポリス市議会に働きかけ、性差別を扇動する内容のポルノグラフィを禁止する「[[反ポルノグラフィ公民権条例]]」の制定を目指した(市長が拒否権を行使した為に不成立)。
キャサリン・マッキノンは、スミス・カレッジを卒業後、[[エール大学]]で学位をとり、[[エール大学]]ロースクールで弁護士資格を入手する。
 
弁護士としては、セクシャルハラスメントをめぐる様々な裁判の他に、[[1986年]]に米連邦最高裁によって違憲判断が下されたインディアナポリス市の反ポルノグラフィ公民権条例の有効性を訴える裁判や、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]([[1992年]]~[[1995年]])で集団強姦されたとする5名の女性を原告として、[[スルプスカ共和国]]の元大統領である[[ラドヴァン・カラジッチ]]を訴えた裁判などを手がけた。
1970年代より、[[セクシャルハラスメント]]という概念を明確化させ、法的に規制する活動を展開。また[[ポルノグラフィ]]についても、女性の人権を侵害しているとして法規制を求める活動を行う。
 
[[1982年]]より、アメリカ合衆国の大学の教官を務めた。[[1989年]]より、ミシガン大学の教官に従事している。[[1995年]]に、講演の為に来日したことがある。
弁護士としては、[[ボスニア]]で集団強姦された5人の女性を原告として[[セルビア人]]指導者[[ラドヴァン・カラジッチ]]を被告とする裁判、職場でのセクハラをめぐる様々な裁判、ポルノに強制的に出演させられたとする女性の代理人として、性差別を扇動する内容のポルノグラフィを禁止する[[インディアナポリス条例]]([[1986年]]に米連邦最高裁によって違憲判決が下された)は憲法に違反しないと訴えた裁判などを手がけてきた。
 
[[1982年]]より、アメリカ合衆国の大学の教官を務めた。[[1989年]]より、ミシガン大学の教官に従事している。[[1995年]]に、講演の為に来日したことがある。
 
==著書==