「チェコスロバキア共産党」の版間の差分

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===ビロード革命と国家解体===
[[1985年]]、ソ連で[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権が登場すると、チェコスロバキアの共産党政権は次第にこれまでと逆方向の圧力、経済発展や社会の自由化を重視する「上からの改革」の実施要求に直面した。経済不振による国民の不満をそらすため、[[1987年]]にフサークは共産党書記長職を[[ミシュ・ヤケシュ]]に譲ったが、大統領にはとどまり、国家の最高権力者として[[ペレストロイカ]]への批判を隠さなかった。ヤケシュは限定的な経済改革を手がけたものの、言論の自由化や反体制派への監視を緩める事はできなかった。
 
[[1989年]]、一連の[[東欧革命]]の中でチェコスロバキアの共産党体制も一気に危機を迎えた。8月にハンガリーで[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]が行われ、多くの東ドイツ国民が[[西ドイツ]]への亡命に成功すると、プラハの西ドイツ大使館にはバカンスでチェコスロバキア国内へ滞在していた東ドイツ国民が殺到した。チェコスロバキア政府は西ドイツ政府と交渉し、人道的配慮を理由に亡命希望者の西ドイツ移送を認めたが、これは東ドイツ政府の反発とともに、チェコスロバキア国内の反体制勢力から自国の民主化を求める声を呼び起こした。