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小説『[[三国志演義]]』では、董卓残党との抗争のときに馬騰の同盟者として登場し、史実と同様に昔なじみの樊稠に見逃されている。その後、[[赤壁の戦い]]のときに群雄として健在であることが語られる。馬騰が謀殺された後、馬超の忠実な同盟者として「[[旗本八旗|手下八部]]」(楊秋・[[侯選]]・[[張横 (後漢)|張横]]・[[程銀]]・[[成宜]]・[[李堪]]・[[馬玩]]・[[梁興]])を率いて曹操と戦う。しかし、手下八部のうちの3名を失うなど苦戦し、最後は曹操配下の賈詡の離間の計に嵌まり、怒った馬超によって左腕を落とされてしまう。その後は曹操に降伏して[[関内侯]]に封じられ、夏侯淵と共に涼州に留まることになる。
 
また、年齢は史書と異なり40歳([[172年]]生まれに相当)となっている。
また、年齢は史書と異なり40歳([[172年]]生まれに相当)となっている。これは、韓遂の父が曹操と同年の孝廉に推挙されたという史書の記述から、曹操の息子に近い世代に設定されたものとみなされることがある{{要出典|date=2010年12月}}。なお、[[裴松之]]が『[[魏書]]』「武帝紀」の注に引く『魏武故事』には曹操の布告として、同年に推挙を受けた中でも五十歳になっていた者がいたと述べられている。実際の韓遂の年齢から(上記にあるように、曹操よりも年上である)、その人物が韓遂の父親であった可能性も考えられる{{誰2|date=2010年12月}}。
 
 
 
{{DEFAULTSORT:かん すい}}