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{{基礎情報 武士
'''大久保 忠常'''(おおくぼ ただつね、[[1580年]]([[天正]]8年)- [[1611年]][[11月14日]]([[慶長]]16年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[徳川氏]]の家臣。[[武蔵国]][[騎西藩]]初代藩主。
| 氏名 = 石川忠総
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[天正]]10年([[1582年]])
| 死没 = [[慶安]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1651年]][[2月14日]])
| 別名 = 新十郎(通称)
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[加賀国|加賀守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]]
| 藩 = [[武蔵国|武蔵]][[騎西藩]]主
| 氏族 = [[大久保氏]]
| 父母 = 父:[[大久保忠隣]]、母:[[石川家成]]の娘
| 兄弟 = '''[[大久保忠常|忠常]]'''、[[石川忠総]]、[[大久保教隆|教隆]]、[[大久保幸信|幸信]]、[[石川成堯]]<br />[[大久保忠尚|忠尚]]、[[大久保忠村|忠村]]、[[大久保貞義|貞義]]、娘([[依田康真]]室)<br />娘(久貝忠左衛門室)、娘(勝蔓寺教了室)
| 妻 = 正室:[[奥平信昌]]の娘
| 子 = [[大久保忠職|忠職]]、娘([[片桐貞昌]]正室)<br />娘([[本多重能]]正室)、娘([[里見忠義]]正室)}}
 
'''大久保 忠常'''(おおくぼ ただつね、[[1580年]]([[天正]]8年)- [[16111580年]][[11月14日]]()- [[慶長]]16年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[1611年]][[11月14日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[徳川氏大名]]の家臣。[[武蔵国|武蔵]][[騎西藩]]初代藩主。
[[相模国]][[小田原藩]]主・[[大久保忠隣]]の長男。母は[[石川家成]]の娘。正室は[[奥平信昌]]の娘([[徳川家康]]の外孫、正室の母で信昌の妻は家康の長女・[[亀姫 (盛徳院)|亀姫]])。子は[[大久保忠職]](長男)、娘([[片桐貞昌]]正室)、娘([[本多重能]]正室)、娘([[里見忠義]]正室)。通称、新十郎。官位は従五位下、[[加賀国|加賀守]]。
 
[[相模国|相模]][[小田原藩]]主[[大久保忠隣]]の長男。母は[[石川家成]]の娘。正室は[[奥平信昌]]の娘([[徳川家康]]の外孫、正室の母で信昌の妻は家康の長女・[[亀姫 (盛徳院)|亀姫]])。子[[大久保忠職|忠職]](長男)、娘([[片桐貞昌]]正室)、娘([[本多重能]]正室)、娘([[里見忠義]]正室)。通称新十郎。官位は[[従五位|従五位下]][[加賀国|加賀守]]。
幼少時から智勇に優れた人物で、家康・[[徳川秀忠|秀忠]]父子からも気に入られており、三河[[譜代]]の子弟たちと共に秀忠の御前で執り行われた元服時には、秀忠から「'''忠'''」の一字を賜っている。武蔵騎西に2万石を与えられた上、将来の[[老中]]職も約束されていた。忠常は慈悲深く温厚篤実な人物で、余人からの人望も厚く、父・忠隣も忠常の将来を期待していたと言われている。
しかし、慶長16年(1611年)、父に先立って32歳の若さで死去してしまった。
 
幼少時から智勇に優れた人物で、家康・[[徳川秀忠|秀忠]]父子からも気に入られており、[[三河国|三河]][[譜代]]の子弟たちと共に秀忠の御前で執り行われた元服時には、秀忠から「'''忠'''」の一字を賜っている。武蔵騎西に2万石を与えられた上、将来の[[老中]]職も約束されていた。忠常は慈悲深く温厚篤実な人物で、余人からの人望も厚く、父・忠隣も忠常の将来を期待していたと言われている。しかし、慶長16年(1611年)、父に先立って32歳の若さで死去してしまった
『[[徳川実紀]]』では、忠常の死は病死とされているが、それに関して疑わしい記述もある。「忠常若年ながら其権威すこぶる[[佐渡国|佐渡]]守([[本多正信]])が右に出たり。正信常にこれを嫉妬せしかば、その死に望みかれに親しき徒までも悪し様にはからひしと言ふ」とあるように、当時、父の忠隣と権勢を競っていた本多正信・[[本多正純|正純]]父子の手によって暗殺されたのではないかという疑いもある。父の忠隣は愛する嫡男の急死に意気消沈して屋敷に引き籠もりがちになり、やがてそれが慶長19年([[1614年]])の[[改易]]につながったのであった。
 
『[[徳川実紀]]』では、忠常の死は病死とされているが、それに関して疑わしい記述もある。「忠常若年ながら其権威すこぶる[[佐渡国|佐渡]]守([[本多正信]])が右に出たり。正信常にこれを嫉妬せしかば、その死に望みかれに親しき徒までも悪し様にはからひしと言ふ」とあるように、当時、父の忠隣と権勢を競っていた本多正信・[[本多正純|正純]]父子の手によって暗殺されたのではないかという疑いもある。父の忠隣は愛する嫡男の急死に意気消沈して屋敷に引き籠もりがちになり、やがてそれが慶長19年([[1614年]])の[[改易]]につながったのであった([[大久保長安事件]])。但し、弟の石川忠総と子の忠職はやがて許され、大名に復帰した。
{{騎西藩主|大久保氏|初代|1601-1611}}
 
== 関連項目 ==
[[Category:戦国武将|おおくほたたつね]]
*[[宇都宮城釣天井事件]]
[[Category:江戸の大名|おおくほたたつね]]
 
[[Category:譜代大名|おおくほたたつね]]
{{騎西藩主|大久保氏|初代|1601- 1611}}
 
{{DEFAULTSORT:おおくほ たたつね}}
[[Category:戦国武将|おおくほたたつね]]
[[Category:江戸の大名|おおくほたたつね]]
[[Category:譜代大名|おおくほたたつね]]
[[Category:大久保氏|たたつね]]
[[Category:1580年生|おおくほたたつね]]
[[Category:1611年没|おおくほたたつね]]