「グレッグ・バレンタイン」の版間の差分

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若手時代は'''ベビーフェイス・ネルソン'''や'''ジョニー・ファーゴ'''のリングネームを名乗り、[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]傘下のローカル・エリアや[[NWF]]、[[テキサス州|テキサス]]の[[アマリロ (テキサス州)|アマリロ]]地区などで試合をしていた。
 
[[1974年]]から[[エディ・グラハム]]の主宰する[[NWA (プロレス)|NWA]][[フロリダ州|フロリダ]]地区に移り、当初は'''ジョニー・バレンタイン・ジュニア'''、後に'''グレッグ・バレンタイン'''の名前で活動する。当時、父親の[[ジョニー・バレンタイン]]はまだ現役選手として第一線で活躍しており、父の意向から息子ではなく「弟」と称していた(息子がデビューするほどの年齢であることが公になると、自分の商品価値が下がってしまうとジョニーが懸念したため<ref>『THE WRESTLER BEST100』P229(1981年、[[日本スポーツ出版社]])</ref>)。
 
[[1975年]]2月に[[ロサンゼルス]]で[[エドワード・カーペンティア]]を破りアメリカス・ヘビー級王座を獲得して注目を浴び、4月には当時[[ジャック・ブリスコ]]の保持していた[[NWA世界ヘビー級王座]]に初挑戦した。
 
同年10月、父ジョニーや[[リック・フレアー]]が乗ったセスナ機が墜落するという事故が起きる。この時の怪我で父は引退。グレッグはこの事件後に、ジョニー・バレンタインの息子であるということを公表し、[[1976年]]よりNWA[[ジム・クロケット・ジュニア]]主宰の[[ジム・クロケット・プロモーションズ|NWAミッドアトランティック地区]]を主戦場とする。リック・フレアーとの金髪コンビで同地区認定のタッグ王座を何度となく獲得し、次代を担う[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として期待された。
 
[[1978年]]、[[ニューヨーク]]の[[WWE|WWF]](現・WWE)に登場。当時のWWFヘビー級王者[[ボブ・バックランド]]と抗争し、メインイベンターの地位を確立した。[[1983年]]まではWWFとNWAを行き来しながら試合をしており、NWAではフレアーや[[ロディ・パイパー]]、[[ワフー・マクダニエル]]らと抗争し、USヘビー級王座(後の[[WCW・ユナイテッドステイツ王座|WCW・US王座]]、現在の[[WWE・ユナイテッドステイツ王座|WWE・US王座]])を2回に渡って獲得するなどトップ戦線で活躍した。