「多田頼貞」の版間の差分

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'''多田 頼貞'''(ただ よりさだ、生年未詳 - [[興国]]4年/[[康永]]2年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1343年]][[9月1日]]))は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[摂津源氏]]の流れを汲む[[多田氏]]の一族とされるが明確な系譜は不明<ref>『[[尊卑分脈]]』には[[能瀬高頼]](頼光より6代の後胤)の曾孫に頼貞という人物が見える。</ref>。[[中宮職|皇太后宮権大進]]。子に[[多田頼仲|頼仲]]がある。
 
[[源頼光]]9代の嫡孫であり、[[後醍醐天皇]]に仕える。[[元弘]]元年([[1331年]])の後醍醐天皇[[笠置山の戦い|笠置山挙兵]]の折には[[二階堂貞藤]]と戦い、これを退ける活躍を見せるも帝(みかど)の本隊が[[奇襲]]により総崩れとなると、やむなく軍勢を撤退した。[[鎌倉幕府]]滅亡後の[[建武の新政|建武の中興]]の折、勤士の功により[[摂津国]][[能勢郷]][[目代]]となるが、[[足利尊氏]]が帝に反旗を翻すと各地を転戦。[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])には山城八幡([[京都府]][[八幡市]])、[[興国]]元年/暦応3年([[1340年]])には[[後村上天皇]]の命により[[脇屋義助]]を補佐し、共に[[伊予国]]へ出兵して[[細川氏]]に戦いを挑んだ。緒戦は優勢に進めたものの兵力差が大きすぎるため敗北し、[[備前国]]に逃れた。
 
備前国では浜野([[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]]浜野)や網浜(岡山市[[中区 (岡山市)|中区]]網浜)付近を拠点とし、近隣の[[豪族]]を味方に付けて勢力を盛り返しつつあったところ、興国4年/康永2年(1343年)に[[赤松氏]]の軍勢が来襲し備前国網浜([[網浜の戦い]])で1度は撃退したが、2度目の来襲時に裏切者がでて敗退し進退窮まり、摂津国にいる嫡男頼仲に「多田家は累世未だ武家に仕えたる先例が無い、もし将軍に仕えるなら氏を能勢に改めて仕えよ」と遺言し8月12日に自害した。