「タンクデサント」の版間の差分

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== 概要 ==
[[Image:M1A1 desant.JPEG|300px|thumb|right|[[イラク戦争]]における米軍の[[M1エイブラムス|M1A1エイブラムス]](バグダッドにて撮影)]]
 
通常、戦車は戦場では随伴[[歩兵]]を伴って運用される。これは戦車単独では容易に歩兵や砲兵の[[対戦車兵器]]の砲火や肉薄攻撃に晒されてしまうからである。すなわち戦車は視界が狭く、機動や俯角に制限があり、さらには同時に対処できる目標が限られるため随伴歩兵の索敵・制圧力を必要とする。しかし随伴歩兵が徒歩のままでは[[戦車]]の機動速度についていけないという問題がある。また、随伴歩兵の移動速度に戦車の速度を合わせたのでは、戦車特有の機動性を発揮できない。そこで通常は歩兵が[[貨物自動車|トラック]]などの軽車両や[[装甲兵員輸送車]]などの[[装甲戦闘車両]]に乗って随伴する。何らかの理由により随伴歩兵用の車両が用意されなかった場合には戦車の上にまたがり、しがみついて移動することがある。これがタンクデサントである。通常は移動時だけ戦車に登っているがそのまま戦闘に突入させる場合もある。
 
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=== ソビエト連邦の赤軍 ===
[[Image:Soviet pressing 1944.JPG|500px|thumb|[[T-34]]から飛び降りるソ連兵(1944年)]]
赤軍ではタンクデサントが多用され、[[ノモンハン事変]]などで広く見られた。第二次世界大戦が始まるとソ連は戦車などの主力兵器に生産力の大半を消費し、歩兵に供するべき軽車両の生産は極めて少なかった。補給などに必要最低限な車両も米国の[[レンドリース法]]による供与に頼っていたほどである。さらに、ソ連は、偵察用に[[装甲車]]を配備する一方、ドイツの[[Sd Kfz 250]] / [[Sd Kfz 251|251]]やアメリカの[[M3ハーフトラック]]のような[[装甲兵員輸送車]]の開発を怠っていた。そのため十分な歩兵を戦車に随伴させることができず、戦歩分離された状態で戦車部隊が戦闘に突入し、対戦車攻撃によって大損害を受けることが多くあった。それへの窮余の策としてタンクデサントが多用され、一般的な運用法と化していた。こうなるともはや一時的な方策ではなくはじめから運用が前提とされているところがあり戦車にはタンクデサント用の取っ手がつけられた。また赤軍はタンクデサントを敵の[[塹壕]]に手っ取り早く歩兵を送り込む手段とみなしていた節があり跨乗させたまま戦闘に突入することも多かった。このような理由からタンクデサントの死傷率はとても高く平均寿命は2 - 3週間と言われる。消耗品として[[懲罰部隊|懲罰大隊]](1942年から終戦までに実に1049個大隊も編成)の兵士によって構成されることが多く、実際にタンクデサントが多用された戦争後半ほど懲罰大隊の編成数も比例するように増加している。
そのため、死傷率を少しでも下げようと[[SN-42]]のような金属製鎧が配備されたりもしたが、あまり効果があったとはいいがたい。