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[[志賀清林]]を祖とする[[志賀氏]]の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の[[号 (称号)|号]]を名乗る。元来、京都[[二条家]]に奉公し[[相撲節会|節会相撲]]の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、[[細川綱利]]に招聘され[[熊本藩]]に仕え、武家奉公をした。以来、[[熊本県]][[熊本市]]に住む。相撲に関する全権は、[[後鳥羽天皇]]より委ねられたという。
 
[[江戸時代]]には、勧進相撲が取り行われるようになり、19代吉田追風は横綱制度を考案し{{和暦|1789}}11月、[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]・[[小野川喜三郎|小野川]]に[[横綱]]を免許した。
 
{{和暦|1791}}および{{和暦|1794}}に、11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]の[[上覧相撲]]を奉仕し<ref>*[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001919260/ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって]
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[[西南戦争]]で吉田司家が[[西郷隆盛]]率いる反乱軍に従軍し、熊本に帰り暫く謹慎していたが明治15年7月東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎(初代)に横綱免許状を授与した。京都の[[五条家]]が相撲の家元と称し江戸末期からあちこちで横綱免許を出していた。
 
[[明治維新]]の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして明治41年五月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄、幕内、十両以上の力士、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一渇を与え、明治42年6月の両国国技館の新設にむかったのである。そして大正14年8月相撲協会取締出羽海梶之助から財団法人化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の他からと助言し、大正14年12月文部大臣岡田良平から財団法人の認証を受けた。会長には陸軍大将福田雅太郎、理事長には元陸軍主計中将が就任した。
[[明治維新]]の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。
 
[[大坂相撲]]には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り[[若嶌權四郎]]に横綱免許を発行、[[大木戸森右エ門]]の横綱問題で1度は大坂を[[破門]]するも後に和解成立により追認、これに[[大錦大五郎]]と[[宮城山福松]]を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。
 
第40代横綱[[東富士欽壹]]までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京[[小石川]]の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、司家24世[[吉田追風|追風]]長善が不祥事を起こし[[1951年]]11月に引退、当時7歳の孝長が25世を継いだが、[[日本相撲協会]]は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱[[千代の山雅信]]以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実門人を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。
 
なお、第59代横綱[[隆の里俊英]]までは司家も推挙式に臨席し、司家の13尺土俵における奉納土俵入りが行なわれたが、第60代横綱[[北尾光司|双羽黒光司]]以降は司家は推挙式には臨席せず、13尺司家土俵での土俵入りも行われていない。
 
司家内部の不祥事により、25世吉田追風と[[栃錦清隆|春日野理事長]]との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を春日野理事長に委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。
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== 吉田司家の著本 ==
*著者 吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』発行 熊本出版文化会館 発売 創流出版 ISBN978-4-915796-88-3歴史的に相撲の形式を整えてきたのは吉田司家である。横綱を考案し、免許を与え続け、その土俵入りも指導した。行司への教育はもちろん免状も渡した。その吉田司家の後裔が、存続の危機にある大相撲に「歴史に学べ」と一言を呈す。相撲廃止の危機は明治時代にもあった。それを23世追風はどのように乗り切ったか。歴史に学び、原点に還ることこそ、今、必要だ。
 
== 脚注 ==