「小早川家の秋」の版間の差分

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== 解説 ==
[[兵庫県]][[宝塚市]]に存在した東宝の源流の1つである宝塚映画制作所(現・[[宝塚映像]])の創立10周年記念作品として、巨匠・小津安二郎を宝塚映画製作所に招聘した作品である。脚本は、[[野田高梧]]と小津との共同執筆によるオリジナルであり、前作『秋日和』([[1960年]])完成直後より[[蓼科高原]]の野田の山荘で執筆された。
 
小津が東宝(宝塚映画制作所)で映画を製作することとなったのは、表向きは『秋日和』で、当時、東宝専属だった原節子と司葉子が松竹映画に出演したことの見返りとなっているが、実際は小津の大ファンだった[[藤本真澄]]プロデューサーをはじめとする東宝首脳陣の小津招聘作戦が功を奏したものだったという。『早春』([[1956年]])に東宝専属の池部良が出演した際には、当時の[[森岩雄]]製作本部長が池部に「何としても小津さんの気に入られて、東宝に来てもらうように頼みなさい」という命令を下すほどの熱の入れようだった。<ref>池部良・著『心残りは…』(文春文庫)224ページ。森の発言は正確には「実は、小津先生には、再三再四、東宝で撮って戴きたいとお願いしてあるのですが、色よいお返事を戴いておりません。あなた(池部良)にお声がかかりましたが、東宝としては無理算段して松竹へあなたをお貸しするのですから、あなたは、先生に気に入られて、東宝へ来て下さるように、それとなくお話ししておいて下さい。あなたの使命は重大です」(同書より)。</ref>小津は既に松竹以外の他社では、新東宝で『宗方姉妹』([[1950年]])を、大映で『[[浮草]]』([[1959年]])を撮っていたが、[[五社協定]]が厳しかった時代に、小津のような松竹を代表する巨匠が東宝で映画を撮ることは稀有なことであった。
 
藤本には、東宝の専属俳優達を強烈な個性を持つ小津映画に出演させて、今までとは異なるイメージを引き出したいという狙いもあった。そのため、本作品は[[新珠三千代]]、[[宝田明]]、[[小林桂樹]]、[[団令子]]、[[森繁久彌]]、[[白川由美]]、[[藤木悠]]ら東宝スター総出演となっている。また、小津も熟練の職人芸で毛色の異なる俳優たちを的確に演出している点も、この作品の見どころの一つとなっている。内容的にも結婚を巡るドラマのスケールを広げて、京都・伏見の造り酒屋の大家族を巡るホームドラマ大作となったが、小津の視点はあくまでも主人公である小早川万兵衛(中村鴈治郎)の老いらくの恋とその死に向けられ、この頃小津が自らを「道化」と称していた心境とも重なるものとなった。万兵衛の葬儀を描いたラストの葬送シーンは11分45秒にわたるこの映画のクライマックスだが、小津は火葬場の煙突から上る煙や墓石を強調し、それらの場面を[[黛敏郎]]作曲による『葬送シンフォニー』で盛り上げ、なおかつ[[笠智衆]]と[[望月優子]]の夫婦による宗教的な会話を挟むことによって、小津作品の中でも最も強烈に死生観を感じさせるものとなっている。