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'''岩本 信一'''(いわもと のぶかず、 [[1921年]]([[大正]]10年)[[1月26日]] - [[2000年]][[1月20日]])は、[[プロ野球選手]]([[投手]])・[[プロ野球審判員|審判員]]([[パシフィック・リーグ]])。[[広島県]][[三次市]]出身。
 
兄は元祖[[神主打法]]で知られるプロ野球選手の[[岩本義行]]。
 
== 来歴・人物 ==
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また[[1948年]]、[[別所引き抜き事件|別所引抜き問題]]で遺恨のあった[[読売ジャイアンツ|巨人]]-南海戦、[[4月14日]]に起こった有名な"三原ポカリ事件"があった試合の先発投手でもあった。この試合、巨人打線を抑え[[リリーフ|救援]]の[[中谷信夫]]に後を託して、風呂に入っていた岩本は事件が起こった9回表、「乱闘だ!」と聞いて「よっしゃぁ!」とパンツも穿かずに風呂を飛び出しグラウンドに出ようとした熱い男でもあった。
 
[[1950年]]、2リーグ分裂で新設された[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]に移籍。[[横浜ベイスターズ|大洋・横浜球団]]の初代背番号'''1'''。先発の一角として7勝を挙げた。さらに翌[[1951年]][[松竹ロビンス]]に移籍して同年引退した。
 
=== 引退後 ===
引退後、アマチュア野球審判。[[1953年]]、[[第35回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]東北大会決勝で[[線審|二塁線審]]を務める。この試合で敗戦投手となったが、米沢西高校(現・[[山形県立米沢興譲館高等学校|米沢興譲館高校]])のエ-ス・[[皆川睦雄]]の素質を買い[[鶴岡一人]]に獲得を進言、皆川は南海入りした。この時代、甲子園に出場していない高卒の[[東北地方|東北]]出身者のプロ野球入りは珍しかった。
 
この後[[パシフィック・リーグ]][[プロ野球審判員|審判]]を務めた後、[[1969年]]から[[1972年]]まで[[中日ドラゴンズ]]の二軍コーチ、寮長を務めた。また中日本審判協会の発起や審判学校の顧問等で、[[東海地方|東海地区]]のスポーツ振興に貢献。他に明治大学野球部OB会副会長も務めた。兄・義行は[[長寿]]で知られるが、信一は2000年に他界している
 
== 通算投手成績 ==