「レヒフェルトの戦い」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2010年2月}}
'''レヒフェルトの戦い'''({{lang-de|Schlacht auf dem Lechfeld}})は、[[955年]]、[[神聖ローマ帝国]]の[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー
[[ハンガリー平原]]を根拠にするマジャ
同年、[[8月10日]]、オットー大帝に率る親征軍が到着し、[[ドナウ川]]支流[[レヒ川]](Lech)流域の[[レヒフェルト]](Lechfeld)において翌2日間にわたる激戦を交えた。
そのとき、オットー大帝の兵力はおよそ八千人で、対するマジャル軍は一万七千人と、兵力では2倍以上の差があり、実際にオットー大帝は多勢のマジャル軍によって窮地に陥った。しかし、前々年の[[953年]]に自身に対して反乱を起こし、謹慎を命じられた女婿の[[ロレーヌ公|ロートリンゲン大公]]の[[コンラート (ロートリンゲン)|コンラート赤毛公]]([[東フランク王国]]の王[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]の末裔、[[ザーリアー朝]]の中興の祖)が岳父の危機の報を聞いて救援に駆け付けたため、重騎兵で構成された神聖ローマ帝国軍は勢いを盛り返し、軽騎兵で構成されたマジャル軍を壊滅させた。
その結果、コンラート赤毛公はこの戦いで戦死したが、以後からマジャル人の侵入は後を絶ち、女婿のコンラート赤毛公の働きもあり、オットー大帝の威信も高まり、[[ザクセン朝]]の王権確立の重要な一因となった。
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