「岩野泡鳴」の版間の差分

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*竹腰幸子と結婚、四男二女を儲けるが男児二人が夭折。
*実母が死去、継母が来る。
*[[1889年]](明治32年(1899)27)27歳 大津市に住んで英語教師をする。
*[[1902年]](明治35年(1902)30)30歳 上京し、[[大倉商業学校]]で英語を教えつつ『[[明星 (雑誌)|明星]]』などに詩を発表。
*[[1904年]](明治37年(1904)32)32歳 第二詩集「夕潮」で認められる。
*[[1906年]](明治39年(1906)34)34歳 初の小説「芸者小竹」、評論「神秘的半獣主義」を発表する。夏休み、戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、芸者吉弥と痴情に耽る(「耽溺」)
*[[1908年]](明治41年(1908)36)36歳 父が死去し旅館日の出館を引き継ぐ。紀州から上京した増田しも江が上京し、これを愛人とする。しも江はいざこざの中で毒を飲むが助かる(「毒薬を飲む女」)
*[[1909年]](明治42年(1909)37)37歳 「耽溺」を発表し、自然主義の作家として認められる。北海道へ渡るが、蟹缶詰製造業はうまく行かず、樺太、北海道を転々とし、あとから追ってきたしも江と心中し損ない、上京中にしも江と別れる。この体験が「泡鳴五部作」(「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「断橋」「憑き物」)に反映する。帰京後、女権運動をしていた[[遠藤清子]]を訪ね、同棲する。
*[[1910年]](明治43年(1910)38)38歳 自伝小説「放浪」を刊行する。「[[毎日電報]]」に続編「断橋」を連載(この間[[東京日日新聞]]となる)。
*[[1911年]](明治44年(1911)39)39歳 「大阪新報」に入社し箕面線池田に清子と住む。自伝小説の冒頭に来るべき「発展」を連載。清子は創刊された『[[青鞜]]』に参加し岩野清子と名乗る。
*[[1912年]](明治45・[[大正]]元年(1912)40)40歳 幸子と正式に離婚。刊行した『発展』が発売禁止となり、「朝日新聞」紙上に抗議文を掲げる。大阪新報を退社して帰京。養蜂に熱中する。
*[[1913年]](大正2(1912)41)41歳 清子と正式に結婚。
*[[1915年]](大正4(1915)43)43歳 [[プルターク]]『英雄伝』翻訳のため雇った筆記者蒲原英枝と関係ができ、清子と別居し、世間から轟々たる非難を浴び、反論する。清子に訴えられ反訴するが敗訴。
*[[1917年]](大正6(1916)45)45歳 友人たちの斡旋で清子と協議離婚。
*英枝が中心となり末日会を主催し毎月万世橋ミカドで開く。[[田中純]]、[[久米正雄]]、[[吉井勇]]、[[谷崎精二]]、[[加能作次郎]]らが集う。
*[[1920年]](大正9(1920)腸チブスを病み入院中林檎を食べて死去。
 
== 作品リスト==