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赤雲斗 (会話 | 投稿記録)
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'''喜連川騒動'''(きつれがわそうどう)とは、[[正保]]4年([[1647年]])に[[喜連川藩]]で起きた、藩内の争いによる藩政の混乱のことである。
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*「江戸幕府老中奉書 慶安元年11月18日付」(阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙)
:「'''喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。藩主の息子である梅千代(4代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ'''」(要約)<ref>『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P65による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。</ref>
 
 
*「喜連川義氏家譜」(『喜連川町史』第三巻資料編3近世(P219~P220)喜連川町史編纂委員会)
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「八代前右兵衛督尊信代、正保四亥年家来騒動仕、慶安元子年、御評定所御裁許ニて
 家老一年(色)刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、
</blockquote>
<blockquote>
右三人大島え遠島、二階堂主殿助奥州白川榊原家へ御預、相木与右衛門摂州尼ケ崎
青山家へ御預、一色妻子とも泉州岸和田岡部家へ御預、伊賀妻子は尼崎青山家へ御預
柴田妻子は越後村松家へ御預、右兵衛督尊信隠居被 仰付、嫡子梅千代七歳ニて家督
幼年候間、親類榊原式部大輔忠次え後見被仰付之由、所替被 仰付候儀は無御座候由
申伝候得共、騒動之始末之年久敷儀ニ付、旧記共虫食ニ相成、巨細ニ相分不申候
</blockquote>
<blockquote>
右一(市)ケ谷月桂寺より問合之節、喜連川家来より文書也、月桂寺申伝候は、高膳
(尊信)乱心せしを家老等をもかくし通し、例病気のよし申候て久しく参勤なし、
高膳近習の士、高某・梶原某、?の咎めありて追放しけれは、此両人 公儀へ申出け
るゆへ御目付を遺され、乱心をかくせしにより遠流に処せられしといふ」
</blockquote>
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続撰系図
</blockquote>
<blockquote>
「家臣等不正の事ありて一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、大島になかされ、
二階堂主殿助を本多能登守に、相木与右衛門を青山大膳亮にめし預られ、高膳も
請さるに致仕を命せらる趣、尊膳(高膳)か狂気せしを家臣等をしかくして年を
経しに、追放されし家士か愁訴せるむねありて御目付花房勘右衛門・三宅大兵衛
を遺されて見せしめられ、事あらはるゝによってなり」
</blockquote>
 
 
*『及聞秘録』(筑波大学中央図書館和文書館所蔵・閲覧可)の記録
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   喜連川左兵衛督乱心の事  家老三人遠流の事
</blockquote>
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喜連川左兵衛督尊信とは、関東の管領足利左馬頭基氏の末孫である。足利家は代々衰え将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰えこの尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで、喜連川殿といわれていた。
</blockquote>
<blockquote>
承應(正保?)年間、喜連川左兵衛督尊信は、「狂乱の病」にかかった。よって、一色刑部二階堂主殿、柴田某の三家老は、互いに合心して尊信を座敷にて「押し籠め」とし幕府には、尊信は「病床中」につき長く参勤できないが三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っていると報告していた。
</blockquote>
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ところが、その後、尊信の近習として仕えていた高四郎左衛門と梶原孫次郎と云う者がおり、この両人に不届があったので三家老は合議の上、この両人を追放した。その後、この両人は今度(このたび)われ等を追放したのは、三人の家老の所為であるとして内密に江戸に来て一通の目安を公儀に差出した。
</blockquote>
<blockquote>
目安の大意は「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に君主尊信を「狂乱の病」と偽り座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置を三家老共の心のままにいたしており、いわれのない私ども両人を追放したので公儀において詮議してほしい。」というものであった。
</blockquote>
<blockquote>
早速、幕府目付衆が調査の為、両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ、喜連川尊信は何を思ってか座敷牢から抜け出し行方不明になってしまったので3家老は驚き行方を聞き廻り、尊信をやっと探し出し再度、押し籠め厳しく番人に守らせた。幕府の目付衆が着くなり尊信を屋形に移し面談しょうとしたが、その日、尊信は調子が悪く座敷牢から出すことが出来ないので目付衆は別れて面談した。そして、「尊信の狂乱は紛れない。」ことを確認し江戸に立ち帰り公儀に報告された。
</blockquote>
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後日、三人の家老を評定所に呼び高四郎左衛門と梶原孫次郎の訴えについて御目付が両名(高、梶原)を吟味した所「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない。」ことを認めた。
</blockquote>
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お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し尊信の狂乱を幕府に隠し置いていたことは不届きである。」と思い召くゆえ三人共(一色刑部、二階堂主殿、柴田某)は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供はそれぞれ諸大名預りとした。
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 一色刑部の長男  相木与右衛門(妾腹)は摂州尼崎城主 青山大膳亮(幸利、譜代)御預かり
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     同じく次男  一色左京(嫡子)と三男一色八郎は泉州岸和田城主 岡部美濃守(宣勝、譜代)御預かり
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     二階堂主殿の嫡子 二階堂某は奥州白川城主 本多能登守(忠義、譜代)御預かり
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 柴田某の嫡子   柴田某は越後国新發田城主 溝口出雲守(宣直、外様) 御預かり
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三人の家老達は伊豆大島に船着し暫く居住していたが何れも老人であり程なく共に病死した。年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌(1662年)の時、大嶋の流人も多くが赦免となった。三人共(三家老)はすでに病死であったのでその儀は出来なかったが三人の子供を赦免しそれぞれ主取とした。中でも一色左京については名高き者の子であるので水野監物忠善より二百人扶持を賜り客分扱いで仰呼された。
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この一色氏というのは清和天皇の後胤であり高家の一人といえる。相州北条家の幕下に属していたので天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時、一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていた所、関八州は家康公の所領となったので多くの関東在住の名士は皆家康に仕えた。
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この時、一色を累代の高家として家康公から召誘いがあったが「すでに年老いており馬の乗降さえやっとの身であるので」と丁重に辞退した。しかしその後、秀吉公に見目しようとした時には秀吉公はすでに体調が悪く仕官はかなわず彼の子孫は喜連川の家臣として微少の身であった。その後、一色左京には男子がなく断絶したといわれる。説には兄の妾腹であった相木与右衛門については後御当家へ仕官したといわれる(以上訳)
</blockquote>
 
== 近代以降にまとめられた文献 ==
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忠臣として記述されている尊信派の中で、二階堂又市だけは喜連川騒動事件の15年後に帰参を許されている。
 
== 江戸や喜連川及び古河に残された文献・史跡が語るもの ==
 
一方、江戸時代の文献である『及聞秘録』には一色派とされた家臣およびその家族達は皆、三代将軍徳川家光の十三回忌(1662年)に赦免され、しかも主持ちで再興されたと記録されている。これは昭和52年編纂の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」で三代喜連川尊信を一色刑部等三家老の押込から開放したとされる尊信派の中心人物であった二階堂主殿又市より約十年早く、逆臣と記述されている一色派家臣は幕府より許されていたことを意味する。
 
さらにこのことを裏付けるように喜連川家墓所の正面には断絶とされたはずの一色家墓所がその家格を示す敷地を要して現存する。一色家墓所内の中心となる最古の墓石は事件の二年後となる慶安三年七月十一日に死去した「二代頼氏公直臣」「大禅勘作胤栄」の文字と「□□院長岳宗久居士」の戒名を刻んだ喜連川家二代筆頭家老一色下野守義久のものであり、明暦二年に伊豆大島で死去した三代筆頭家老一色刑部少輔義貞(「翠竹院松山宗貞居士」)と岡崎藩水野監物家で再興された嫡子一色左京(「乾利院道山松公居士」)の墓石も現存する。一方、忠臣とされた尊信派の高家・梶原家等の墓所・墓石は喜連川領内には現存しない。
 
また、喜連川家の前身の一つ古河公方足利義氏・氏女以降の足利家の墓所である古河の徳源院の過去帳(『古河市史』に載る)にも一色刑部少輔義貞は「歓喜佛 翠竹院松山宗貞居士 一色刑部 明暦二年七月 伊豆大嶋にて死去」と記録され、喜連川家四代喜連川昭氏と共に弔われている。
 
なお、この古河の徳源院の過去帳にはこの一色刑部少輔義貞の祖父一色下野守(前右衛門佐)氏久も「熱田大明神 松香院圭峰周玄居士 一色下野守 慶長六年十二月」と記録され、喜連川家初代足利国朝と共に弔われている。
 
== 脚注 ==