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== 第73回全国高校野球選手権決勝戦 ==
=== 全6試合フルイニング登板の代償 ===
[[第73回全国高等学校野球選手権大会|1991年の全国高校野球選手権]]では、沖縄水産高校は前年に続き、2年連続の決勝進出を果たした。対戦相手は、[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]であった。[[第72回全国高等学校野球選手権大会|前年]]に沖縄水産高校は、[[天理高等学校|天理高校]]に0-1と惜敗し、沖縄県勢初の全国制覇をあと一歩で逃していた。それだけに沖縄県民の期待は非常に大きかった。結果は前年の投手戦とは違い、打撃戦となるが、8-13と打ち負けてまたしても全国制覇を逃してしまった。当時、大野は沖縄水産高校の三年生で同校のエースとしてチームを率いており、この決勝戦でも先発投手であった。しかし、大野は、第73回大会での6試合全イニングを全て一人で投げ抜いた(計773球)が、彼の右肘は既に沖縄大会から既に右肘は悲鳴を上げていた。さらに、大野に代わる控え投手も故障していた。投手は大野しかいなかったのである。当時の沖縄水産高校監督・[[栽弘義]](故人)にとっても頭が痛い非常事態であった。沖縄県民の期待とは裏腹に沖縄水産高校は、この非常事態の中で同大会を迎えることとなっていたのである。準決勝までは失点はしたものの、強力打線が大野の右肘痛による不調をカバーする形で、勝ち抜いていた(5試合とも終盤での失点が目立ったが、それまでに強力打線が、大野が失点する以上に得点していた)。しかし、決勝戦でついに大野の右肘痛は限界に達してしまった(前日の準決勝で右肘を疲労骨折)。大野は大阪桐蔭打線につかまり、13失点を喫したのである。この試合で、大野は右肘の痛みで意識が朦朧としていた。強力打線も大野の不調をもうカバー仕切れなくなった(一時は逆転する強さを見せ、相手の先発投手を降板させたほどであった)。結果として敗退し2年連続準優勝に終わるが、皮肉にも大野にとって、この決勝戦が投手として最後のマウンドとなり、投手生命を絶たれる代償を負うこととなった(同年の秋季国体に出場せず)。余談だがこの右肘痛が原因で、野球から一線を退いた今でも右肘は曲がったままで、まっすぐ伸ばす事は出来ない状態となっている。と同時に栽監督も、大野を右肘痛であることを知りながら登板させたことで、沖縄県民だけでなく世間から批判を浴びることとなった(前述の事情から栽監督にとって勝ち抜くためには、大野を登板させる以外に方法は無く、大野一人に託すしか無かったのである<ref>大会では、イニングの合間にベンチで大野の腕をマッサージして「うちにはお前しかおらん」と、ねぎらっていた。</ref>)。
 
=== 栽監督への思い ===