ムーアの音楽キャリアは、ギタリストの[[ジョン・ペトルーシ]]、ベーシストの[[ジョン・マイアング]]、ドラマーの[[マイク・ポートノイ]]、ヴォーカルのクリス・コリンズらとのバンド、マジェスティ(後の[[ドリーム・シアター]])に始まる.8年間・3枚のアルバムに渡るドリーム・シアターでの活動の後、1994年に音楽性の相違からバンドを脱退。彼はニューメキシコのサンタフェに引っ越した。
さまざまな曲を作ったりデモテープを作成したりした後、彼はクロマ・キー(Chroma Key)名義でアルバム'『Dead Air For Radios'』を出発表した.。このアルバムには[[フェイツ・ウォーニング]]のマーク・ゾンダーと、スティーヴ・タッシャーが参加している.そのアルバムの音楽は、ドリーム・シアターのように複雑で難解なスタイルというよりは、[[デペッシュ・モード]]のそれに近い,、暗くアンビエントで電子的なものであった。
ドリーム・シアターのファンは後々、ムーアがドリーム・シアターの'『[[アウェイク|Awake']]』アルバムの中の'「Space-Dye Vest'」でクロマ・キーのような音楽スタイルを模索していたことに気づく事になる。事実、クロマ・キーの'「On The Page'」は'「Space-Dye Vest'」の続きでもあった ('「On The Page'」という題名は'「Space-Dye Vest'」の歌詞の一部でもある)。
2000年にはムーアはロスアンゼルスに移住し、デジタル色の強いアルバム'『You Go Now'』を録音した。このアルバムに参加したのは、ケヴィン・ムーア、デヴィッド・イスコー(ギター)、スティーヴ・タッシャー(ループ、プログラミング)の3人である。このアルバムの録音を終えた後、彼はコスタリカに移住し、短波ラジオ局「レイディオ・フォー・ピース・インターナショナル」に勤務して隔週の平和活動番組の制作を行った。この番組の音源は'『Memory Hole 1'』としてmp3音源のダウンロード販売という形で発表された。
2003年には、[[フェイツ・ウォーニング]]のギタリストであるジム・マテオスに誘われ、[[ドリーム・シアター]]のドラマー[[マイク・ポートノイ]]や、[[シニック]]及び[[ゴーディアン・ノット]]のベーシストにして[[スティック|チャップマン・スティック]]奏者でもあるショーン・マローンも参加したバンド・[[OSI_(バンド)|OSI]]に参加し、アルバム'『Office Of Strategic Influence'』を出した。ムーアのマイク・ポートノイとの共演は10年振りの事であった。OSIの音楽は、「クロマ・キーの暗くメロディックな面と、フェイツ・ウォーニングやドリーム・シアターのヘヴィネスの混合」とでも言うべきものだ。OSIでは、ヴォーカルもムーアが担当している。また、'「shutDOWN'」という曲には、ヴォーカルと作詞に[[ポーキュパイン・トゥリー]]のスティーヴン・ウィルソンがゲスト参加している。
2004にはムーアはトルコのイスタンブルに移住し、ホラー映画'『Okul'』のサウンドトラックを作曲。後にこれはソロ名義でのアルバム'『Ghost Book'』としてリリースされた。この経験から、ムーアはパブリック・ドメインの映画の中からある種の雰囲気のあるものを探し、偽のサウンドトラックを付けるという形で次のクロマ・キーのアルバムを作ることにした。彼は1950年代の教育映画'[http://en.wikipedia.org/wiki/Sid_Davis Age 13]'を選び,彼は映画の速度を1/2倍速に落とした以外は、曲の雰囲気や曲の長さを'「Age 13'」に合わせてアルバムを制作した。その結果がアルバム'『Graveyard Mountain Home'』である。
2005年には、ムーアはカナダのモントリオールに移住。ジム・マテオスと共に[[OSI]]の2枚目のアルバムの製作を開始し、その音源は2006年に'『Free'』としてリリースされた。
== ディスコグラフィ ==
**オフィス・オヴ・ストレタジック・インフルエンス - "Office of Strategic Influence" (2003)
**フリー - "Free" (2006)
**ブラッド "bloodBlood" (2009)
*ゲスト参加
**[[フェイツ・ウォーニング]]へのゲスト参加
|