「オルミュッツ協定」の版間の差分

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オルミュッツ協定(オルミュッツの屈辱)は、「小ドイツ主義」によるドイツ統一を狙うプロイセンにいくつかの教訓を残した。まず、少なくてもオーストリアを牽制しうるだけの国際情勢が現出しない限り、ドイツ統一は困難であるということである。また、そうした状況が生まれたとしても外交交渉のみで円満な解決が得られることはほぼ不可能であり、軍事的手段に訴えざるを得ないだろうということである。
 
このうち、前者(国際情勢)に関しては、1853年に勃発した[[クリミア戦争]]が重要な転換点となった。[[ナポレオン戦争]]以後、初めて五大国のうちの三国(英・仏VS露)が衝突したこの戦争において、オーストリアは両勢力に配慮して中立政策をとった。しかし、このことがオーストリアの支持を期待していたロシアの失望を招き、しかも英・仏側が[[セヴァストポリ]][[要塞]]を陥落させたのを見計らって、英・仏側に味方したために従来までの墺・露間における密月関係に終止符が打たれた。さらに英・仏にも甘い汁を吸おうとした参戦に嫌悪感を与え、オーストリアはヨーロッパでの外交戦略で孤立し、プロイセン外交にとって有利な要素となった。しかしドイツ統一問題は、[[北ドイツ]]にも及び、特に[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]の最中で1848年に起きた[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|デンマーク戦争]]において、全てを旧状に復すること、[[フレデリク7世 (デンマーク王)|デンマーク王]]は[[ホルシュタイン公国]]の主権者の地位を回復し、また主権者として[[ドイツ連邦]]のいかなる介入をも受けないことがプロイセンとロシアの間で約束された。このことはドイツ統一における一つの障害として残され、これは1852年の[[ロンドン議定書]]で確認された(デンマーク[[絶対王政]]を廃止する6月憲法は、両公国には布告されず、現状維持を呈する内容であった)。また、後者(軍事的解決)に関しては、1862年にプロイセン首相に就任する[[オットー・フォン・ビスマルク]]による「[[鉄血政策]]」によって、具体的方策が準備されることになるのである。いずれにしてもプロイセンは、小ドイツ主義を貫徹するために、軍事的手段を含めた政策を取って行く事となる。
 
==関連項目==