「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分
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[[ファイル:Henry V of England - Illustration from Cassell's History of England - Century Edition - published circa 1902.jpg|thumb|150px]]
1413年3月20日にヘンリー4世が亡くなると、翌日にはヘンリー王子が王位を継承し、4月9日に戴冠式が行われた。
ヘンリー5世は全ての内政問題に直接関与し、そして次第に自身の影響力を高めていった。また、その即位当初から自らをイングランドという連合国家の長と位置付け、過去の国内対立を水に流す方針を明確にした。
まず父と対立した[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]を再度丁重に埋葬し、リチャード2世が在位していた間の[[推定相続人]]である[[エドマンド・モーティマー (第5代マーチ伯)|エドマンド・モーティマー]]をお気に入りとして手元に置き、さらには爵位・領土を没収されて苦しんでいた貴族
ヘンリー5世にとって最大の内政課題は、当時異端として迫害されていた[[ロラード派]]の不満分子に対する対処であった。[[1414年]]1月に[[ジョン・オールドカースル]]の反乱を未然に防いだヘンリー5世は内政基盤を堅固なものとした。[[1415年]]6月に[[サウザンプトンの陰謀事件]]<ref>'''サウザンプトンの陰謀事件''':[[ライオネル・オブ・アントワープ]]の曾孫マーチ伯[[エドマンド・モーティマー (第5代マーチ伯)|エドマンド・モーティマー]]を王位につけようと、義兄の[[ケンブリッジ伯]][[リチャード・オブ・コニスバラ]]らが企てたが、当のマーチ伯が国王ヘンリー5世に通報したため失敗に終わった事件。</ref>を除いてはこれ以降の彼の統治期に大きな内政問題は発生していない。
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また、ヘンリー5世は政府公式文書での[[英語]]の使用を促進した。彼は350年前の[[ノルマン・コンクエスト]]以来初めて、個人書簡に英語を使用した王であった<ref>[[ノルマン朝]]、[[プランタジネット朝]]のイングランド王は元来フランスの地方領主であり、フランス人としての意識が強い君主が多かったため、それまでは[[フランス語]]を使用していた。</ref>。
==== フランスへの要求 ====
内政問題が鎮静化した
ヘンリー5世は
* フランス政府が反乱を起こした[[オウェイン・グレンダワー]]に援助していた
* ブルゴーニュ派・アルマニャック派それぞれに支援を与えていた
という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したフランスに対し、ヘンリー5世は長期休戦状態にあった[[百年戦争]]を再開し、フランス遠征を行った。
1415年8月11日にフランスに向けて出航したヘンリー5世のイングランド軍は、8月13日に北フランスに上陸し、[[アルフルール
[[イギリス海峡]]の制海権を確固たるものにするためには、フランスだけでなく、フランスと同盟するヨーロッパ各国を海峡から締め出す必要があった。
アジャンクールの戦いの後、[[神聖ローマ皇帝]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]はイングランドとフランスの和平調停のためヘンリーのもとを訪れた。ヘンリー5世のフランスに対する要求を緩和するように説得するためである。ヘンリー5世は皇帝を歓待し、[[ガーター勲章]]まで授与した。ジギスムントは返礼としてヘンリーを[[ドラゴン騎士団]]に登録した。数ヶ月後、イングランドのフランスへの賠償請求権を認めたジギスムントは[[カンタベリー条約]](1416年)を締結してイングランドを去った。
イングランド国王と神聖ローマ皇帝との間につながりができた
[[ノルマンディー]]地方の沿海部はまたたくまに占領され、[[ルーアン]]の町も[[パリ]]から分断された状態で攻め立てられた。フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で機能していなかった。ヘンリー5世は巧みに両派を争わせつつ、[[1419年]]1月にルーアンを陥落させた。
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抵抗したノルマンディーのフランス人は厳しく罰せられた。城壁からイングランド人捕虜の首をぶら下げたアラン・ブランシャールは瞬く間に処刑され、イングランド国王を[[破門]]したルーアンの[[カノン (宗教)|司祭]]ロバート・ドゥ・リベットはイングランドに送られて5年間牢獄に入れられた。
[[1419年]]8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って[[シャルル7世 (フランス王)|王太子シャルル]]と[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン無恐公]]はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、交渉の場で王太子の支持者が
[[1421年]]6月10日、ヘンリー5世は自身最後の遠征のためフランスに向けて出航した。7月から8月にかけてヘンリーの軍は[[ドルー
ところが[[1422年]]8月31日、ヘンリー5世はパリ郊外の[[ヴァンセンヌの森]]で、モー包囲戦の際に感染していた[[赤痢]]で死亡した。34歳であった。わずか数か月前に、息子[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の名前で弟の[[ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]をフランスの摂政に任命したばかりであった。ヘンリー5世としてはトロワ条約の締結の時、病弱なフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]よりは長生きする自信があったため「次のフランス王」と取り決めたが、結局ほんの2ヶ月ではあるがシャルル6世の方が長生きする
キャサリンはヘンリーの亡骸をロンドンに運び、[[1422年]]11月7日に[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬した。ヘンリーの死後、キャサリンは[[ウェールズ]]人の侍従[[オウエン・テューダー]]と長い間関係(密かに結婚したかも知れない)を持っていた。彼らこそが後に[[テューダー朝]]を開いた[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の祖父母である。
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