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|体重=100kg(現役時)
|所属チーム名=ロサンゼルス・レイカーズ
|ポジション= フォワード、センター
|役職=HC
|背番号=18, 17
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大学時代のジャクソンは[[ビル・フィッチ]]監督のもとでバスケットボールをプレーし、4年間で平均19.9得点、12.9リバウンドと活躍した。ジャクソンは身長203センチで非常に長い腕を持っており、プロのスカウトが訪れた時には車の後部座席に座ったまま前部の両側のドアを同時に開ける芸を披露した。
 
== 選手時代 ==
大学卒業すると、ジャクソンはニューヨーク・ニックスに2巡目全体17位で指名された。同時期にじ頃、[[レッド・ホルツマン]]がニックス監督に就任チームは[[ウィリス・リード]]や[[ウォルト・フレイジャー]]、[[ビル・ブラッドリー]]など歴史に残る名選手を擁していた。ジャクソンの役割は控えの[[パワーフォワード]]としてベンチから貢献することだった。
 
さらに[[デイブ・ディバッシャー]]などをらのえた入でニックスは強豪さらなり力をつけ、[[1970年]]にはリーグを制覇するが、このシーズンのジャクソンは背中の怪我のため全試合欠場していた。続く2シーズンは優勝を逃したが、1972-73シーズンにニックスは再びリーグを制し、ジャクソンにとって初めての優勝経験となった。
 
翌シーズン以降にはチームの主力が引退などでチームを離れ始め、ジャクソンは先発を務めるようになった。しかし次第に出場時間や試合数は減少していき、[[1978年]]に[[ニュージャージー・ネッツ]]にトレードされた。ジャクソンはネッツでアシスタントコーチ兼任の選手として[[1980年]]までプレーした。
 
選手時代のジャクソンは、運動オフェンス能力に限りがあったもの、長い腕を活かした頭脳的なディフェンスなど地味な面で貢献し、努力家の労を惜しまない選手として知られていた。13年間の選手生活で出場した807試合で、平均出場時間は17分、平均得点6.7でリバウンドは4.3だった。チームの調和を重んじるホルツマン監督の指導方針はジャクソンに影響を与え、のちに自らがチームを指揮する際にも踏襲することになった。
 
若い時代のジャクソンは、当時の風習を反映し長髪でひげを生やした[[ヒッピー]]風の風貌をしていた。
 
== 選手引退後 ==
1980年にジャクソンは選手としては引退したが、後もニュージャージー・ネッツに残り1年間アシスタントコーチを務めた。翌年はネッツの試合放送で解説の仕事をし、[[1982年]]より実質的な下部リーグだった[[コンチネンタル・バスケットボール・アソシエーション|CBA]]の[[オールバニ・パトルーンズ]]監督に就いた。
 
初年度は勝率5割以下だったものの、翌シーズン以降は勝ち越すようになり、[[1985年]]にはリーグの最優秀監督賞を受賞し、リーグを制覇した。パトルーンズ監督を退く[[1987年]]までの5年間で117勝90敗、勝率は56.5%だった。またCBAのオフシーズンには[[プエルトリコ]]のリーグでバスケットボールチームを指揮した。
 
CBAのコーチとしては優秀な成績を残していたものの、[[NBA]]からのコーチとしての採用はなかなか声がかからなかった。古巣の[[ニューヨーク・ニックス]]や[[シカゴ・ブルズ]]をはじめとしていくつか、複数のチーム面接を受けに行っているがたもののいずれも不採用になっている。このころジャクソンはコーチ業に精神的なつらさを感じるようになっていた。CBAではせっかくいい成績を残していても中心選手がNBAに引き抜かれてしまったり、またNBAでの悲しい体験を背負った選手が舞い戻ってきたりすることがよくあった。オフシーズンにコーチをしていたプエルトリコなどのチームではもともと英語を話せないばかりかきちんと教育も受けていなかったり、基本的なバスケットの技術を身につけていない選手も多かった。また観客も飲酒をしながら観戦したり発砲騒ぎかよく起こるなどマナーに欠けた振る舞いが多かった。NBAのコーチに採用される見込みがないことを悟らざるを得なくなり、ジャクソンは転職を決意する。職業適性検査を受けてみると適職は山小屋の番人など大して収入が見込めない職業が多かった(当時すでに5人の子供がいたため、ジャクソンは彼らが大学に入れるだけの収入を求めていた)が、[[弁護士]]には比較的向いているという結果だったため、コーチを辞職し、大学に戻って弁護士の資格を取ろうと準備をしていた時に[[シカゴ・ブルズ]]のジェネラル・マネージャーだったジェリー・クラウスからコーチとして採用を求める電話がかかってきた。当時、シカゴ・ブルズはアシスタントコーチの一人が開幕の直前に他チームに引き抜かれるという事態が起きてコーチの欠員を補充する必要に迫られていたところだった。
 
== ヘッドコーチとしての経歴 ==