「小野五平」の版間の差分

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Coa (会話 | 投稿記録)
小野は宗歩門下ではなく宗桂門下。参照サイトも宗歩の記事もそう書かれているので転載ミスだろうか。
田幸 (会話 | 投稿記録)
天野宗歩門下に修正。免状発行から師弟関係ができたとは言えない。
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'''小野 五平'''(おの ごへい、[[天保]]2年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]([[1831年]][[11月9日]]) - [[大正]]10年([[1921年]])[[1月29日]])は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、[[天野宗歩]]門下<ref>「日本将棋連盟創立81周年記念特別読物[前編] 明治大正棋界の歩み」記・越智信義 [関連図] p.151 『将棋世界』2005年12月号</ref>
 
== 経歴 ==
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*1831年(天保2年) - [[阿波国]](現在の[[徳島県]])脇町([[美馬市]])の旅館の長男として生まれる。
*1850年([[嘉永]]3年) - [[京都]]にのぼり天野宗歩の指導を受ける。青年時代までは「土井喜太郎」を名乗っていた。
*この間、[[江戸]]に出て十一代大橋天野桂に入門歩の内弟子となる<ref>「日本将棋連盟創立81周年記念特別読物[前編] 明治大正棋界の歩み」記・越智信義 p.153 『将棋世界』2005年12月号</ref>。すでに四段の実力はあったという。家名を継いで「尾野五平」を名乗る。
*1879年([[明治]]12年) - 七段昇段、「小野五平」に改名。[[伊藤宗印 (8代)|伊藤宗印]](この年十一世名人を襲名)と宗印の[[駒落ち|左香落ち]]で対局し、252手までで破っている。
*1880年(明治13年) - 八段昇段。
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*[[名人 (将棋)|名人]]
*[[阪田三吉]]
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 外部サイト ==