「鎌倉三代記」の版間の差分

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== 概論 ==
*近松半二らの作「[[近江源氏先陣館]]」(1769年)との共通点も多い所から、「近江源氏」の翌年に上演された同じ作者の「太平記鍪飾」がその前身というのが有力である。
*作品の背景は、[[大坂の]]を北条氏と御家人の争いに替えており、[[徳川家康]]を北条時宗、[[千姫]]を時姫、[[真田信繁|真田幸村]]を佐々木高綱、[[木村重成]]を三浦之助、[[後藤基次|後藤又兵衛]]を和田兵衛、[[淀殿|淀君]]を宇治の方、[[豊臣秀頼]]を源頼家にそれぞれ当てはめている。浄瑠璃の言葉にも「名にしおう坂本の総大将と類いなき」で「大坂」をさりげなく織り込んでいるなど、随所に事実がちりばめられている。
*この作品のヒロイン時姫は「[[三姫]]」の一つに数えられる難役で、「赤姫」と呼ばれる華麗な深紅の衣装に気品さと可憐さが求められ、さらに恋人のために深窓の出にもかかわらず手ぬぐいをかぶって米を炊いだり、果てには父を殺す決意をする気の強さも持ち合わせなければならない。近代では[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目]]と[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目の中村歌右衛門]]が双璧とされた。五代目は「太陽のように輝いていた。」と[[三宅周太郎]]に絶賛されるなど一番の当たり役であった。対する三浦之助は、前髪姿ながらも智将の印象が求められ、[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]や[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]などが当たり役としていた。
*1933(昭和8)年12月京都[[南座]][[顔見世]]のことである。初代鴈治郎は病で体力が弱っていた。三浦之助で出ると決まり、鎧が重いと周囲が止めたが「アホか!鴈治郎とあろう者が軽い鎧着て出られると思てんのか!」と一喝していつもの鎧を着た。だが、二日目になると「軽いのにしてくれ」と言いだし、三日目には休場、そのまま舞台に立つことなく没した。ファンは「さすが成駒屋はんや。最後まで緋おどしの鎧着てはったな」と名優を偲んだという。