「ロベルト1世 (パルマ公)」の版間の差分

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[[フィレンツェ]]で生まれる。父カルロ3世が[[1854年]]に暗殺されたため、母の摂政の下に6歳でパルマ公に即位した。[[1860年]]、12歳の年にパルマ公国は住民投票により[[サルデーニャ王国]]への併合が決定され、ロベルトは君主の地位を退いた。サルデーニャ王国は翌1861年に[[イタリア王国]]となった。
 
[[1869年]]、[[両シチリア王国|両シチリア]]王[[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]の娘[[マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|マリーア・ピア]]と結婚し12子をもうけたが、大変血縁関係が近かったためか、多くの子が夭折または障害児だった。マリア・ピアは1882年に最後の子を死産した後、死去した。
* [[マリア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=パルマ|マリア・ルイーザ]](1870年 - 1899年) [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]王[[フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナンド1世]]と結婚し、[[ボリス3世 (ブルガリア王)|ボリス3世]]ら4子をもうけた。
* フェルディナンド(1871年)