「貞純王后」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[1757年]]英祖妃[[貞聖王后]]が没すると、英祖は[[後宮]]から新しい王妃を選ぶことをせず、[[1759年]]に[[揀擇令]]を発し、金漢{{llang|zh|耈}}の娘である貞純王后を王妃として迎えた。当時英祖は66歳、貞純王后は15歳であり、李氏朝鮮歴代王の中で、最も年齢差の大きい婚姻であった。貞純王后は英祖の子である王世子[[荘献世子]]よりも歳が若かったが、一族と共に荘献世子の死に関与したことから荘献世子の遺児[[正祖]]との仲は悪かった。
 
[[1800年]]、[[純祖]]の即位直後より、[[垂簾聴政]]を行い、死没までの5年間、権力を振るった。この間に貞純王后は[[カトリック教会|天主教]]信者を含む[[南人]]系の[[実学]]者達を弾圧し([[辛酉邪獄]])、[[丁若鏞]]、[[李家煥]]等を粛正した。[[1803年]]12月に垂簾聴政を取りやめ、[[1805年]]、[[昌徳宮]]景福殿にて死没した。英祖の陵である[[元陵]]に埋葬された。享年61。