「近藤信竹」の版間の差分

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ただ、後に軍令部次長時代には書類の決裁に非常に慎重になり、部下の中には次長である近藤を飛ばして総長に直接決裁を求める者もいたという。近藤が仕えた軍令部総長は[[伏見宮博恭王]]及び[[永野修身]]と二人とも問題のある人物であり、いきおい自分が慎重にならなければならないと考えたらしい。
 
なお、近藤は親独派として知られ、伏見軍令部総長宮のもとでは、部内で[[日独伊三国同盟]]締結を説いていた。また、軍令部次長から転出するまで日米関係を担当、ここでも、その後の日独関係の影響から日米関係について部内で強く発言をしている。部内では戦争をやるのはやむを得ないと語っており、会議後に永野軍令部総長が「近藤くんも随分強いことを言っていたな」という意味深長なやり取りをしていた場面を[[中島親孝]]海軍中佐が聞いている。その後、[[伊藤整一]]と次長が入れ替わったことで部内の空気が柔らかくなったといわれており、近藤が次長から転出すまでの部内の論調が、開戦までのプロセスにどのように影響(特に対独関係)を与えているのかが、開戦までのプロセスを知る上で重要な鍵を握っていると[[海軍反省会]]では指摘されている。
 
== 太平洋戦争 ==
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大学校教官時代に、図上演習の審判学生が戦況を把握するために立ち位置を変えて演習を見守っていたが、近藤は「審判たる者、腰を据えて全体を見通せ」と助言した。助言された学生は「棒立ちの行司やアンパイアがいるものか。局面を見逃すまいと最も見える立ち位置を確保してこその審判だ」と内心あきれながら面従背腹の態度で演習に臨んだと回顧する。{{要出典|date=2008年8月}}
 
南太平洋海戦の際、指揮下の二航(隼鷹、角田少将)を機動部隊(第三艦隊)の指揮下に入るよう命じて分離し、自らは水上部隊を率いて敵方へ前進した判断などは、臨機応変に空母戦力を機動部隊の統一指揮下に置いて航空戦の指揮を容易にし、自らは指揮官先頭を実践したとし、普段は昼行灯に見えて実は武人らしい気迫を持った人物であると[[吉田俊雄]]は評している。
 
当時機動部隊指揮官南雲忠一より席次が上であったため、主力部隊を率いる南雲とその支援部隊を率いる上級者の近藤との間には複雑なものがあったとされるが、近藤は南雲の行動に一切掣肘を加えることなく、あたかも南雲の指揮下にあるかのように行動し、第三艦隊参謀長であった[[草鹿龍之介]]は著書で近藤の寛容に感謝の念を表明している。