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{{記事名の制約|title=夏{{lang|zh|詒}}霆}}
{{中華圏の人物
| 名前=夏{{lang|zh|}}
| 画像=[[File:Xia Yiting.jpg|220px200px]]
| 画像の説明=Who's Who in China 3rd ed. (1925)
| 出生=[[1878年]]([[清]][[光緒]]4年)
| 死去=不詳
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| 職業=政治家・外交官
| 簡体字={{lang|zh|夏诒霆}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|夏詒霆}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Xià Yítíng}}
| 通用=
| 注音=ㄒ|ㄚˋ |ˊ ㄊ|ㄥˊ
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}}
 
'''夏 {{lang|zh|}}霆'''(か いてい)は、[[中華民国]]の政治家・外交官。[[北京政府]]で外交事務に携わった。[[字]]は'''廷斎'''。
 
== 事跡 ==
[[貢生]]となった後、[[ベルリン]]のドイツ公使館で翻訳官をつとめる。その後、スペイン公使館館員、[[パリ]](フランス)公使館一等秘書官となる。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、夏{{lang|zh|}}霆は[[北京政府]]外交部秘書となり、翌年2月、国務院秘書に異動している。同年8月、日本に赴任し、1か月だけ署理横浜総領事となった。その後もベルギー・フランス在外公館領事を歴任した。
 
[[1915年]](民国4年)3月、夏{{lang|zh|}}霆は外交部参事となる。翌年3月、帝制の目論見が潰えた[[袁世凱]]が新たな政治制度を検討するための政治研究会を創設し、夏はこの研究会の秘書長に任じられている。4月、夏は外交部次長代理となった。10月、[[段祺瑞]]内閣の外交総長代理を暫時つとめ、次いで大総統顧問兼国務院顧問に就任した。[[1918年]](民国7年)2月<ref>Who's Who in China 3rd ed.,p.298は、1917年10月就任としている。</ref>、ブラジル・ペルー公使に任命されている。[[1920年]](民国9年)1月、二等文虎章を、[[1922年]](民国11年)10月、一等大綬嘉禾章を、それぞれ授与された。[[1927年]](民国16年)<ref>Who's Who in China 5th ed.,p.85は、1922年までの任期としている。</ref>、任務を終えて帰国した。
 
以後、夏{{lang|zh|}}霆の行方は不明である<ref>Who's Who in China 5th ed.同上でも、ブラジル・ペルー公使以後の経歴について、「近年これ以上の情報は何も受け取っていない」と記述している。</ref>。
 
== 注 ==