「シャルル・フリーデル」の版間の差分

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[[1877年]]、[[ジェームス・クラフツ]]と共に[[フリーデル・クラフツ反応]]を開発した。また、[[ダイヤモンド#人工ダイヤモンド|人工ダイヤモンド]]を製作することを試みていた。
 
息子の[[ジョルジュ・フリーデル]]([[1865年]]-[[1933年]])は鉱物学者になって[[コンクリート]]の成分の一つ[[フリーデル氏塩]](Ca<sub>2</sub>Al(OH)<sub>6</sub>(Cl,&nbsp;OH)&nbsp;·&nbsp;2&nbsp;H<sub>2</sub>O)を発見し、孫の[[エドモン・フリーデル]]([[1895年]]-[[1972年]])は[[液晶]]の命名を行った。ひ孫の[[ジャック・フリーデル]]([[1921年]]-)は物理学者になった。
 
[[ケイ酸塩鉱物]]の[[フリーデル鉱]](Friedelite、(Mn, Fe)<sub>8</sub>Si<sub>6</sub>O<sub>15</sub>(OH, Cl)<sub>10</sub>)に命名されている。
==経歴==
[[1850年]]から[[ストラスブール]]で自然科学を学び、[[1852年]]に[[パリ大学]]に移った。[[1856年]]から[[1870年]]まで鉱業科 (Écoles des mines) で鉱物を収集する研究員として働いた。この間、薬学科 (École de Medicine) の[[アドルフ・ヴュルツ]]の研究室で化学の知識を得た。また、ここで[[1860年]]にジェームズ・クラフツと出会った。[[1869年]]に博士号を取得したのち、[[1871年]]に師範学校 (École normal) で講師に就き、[[1876年]]に鉱物学の教授となった。[[1884年]]にはパリ大学に移って無機化学の教授に就任した。
 
[[1889年]]からは有機化合物命名法改正委員会の会長を務めた。
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[[Category:フランスの化学者]]
[[Category:ストラスブール出身の人物]]
[[Category:鉱物学者]]
[[Category:1832年生]]
[[Category:1899年没]]