「ジェファーソン地域」の版間の差分

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== 19世紀 ==
ジェファーソン州を提案した地域は、シスキュー・トレイルと呼ばれる交易と旅人の道が縦断しており、ヨーロッパ人やアメリカ人がアメリカ西海岸では最後に探索したところである。最初にヨーロッパ人が入ったのは[[1820年代]]であり、相当数の開拓者の入植となると[[1851年]]のワイリーカにおける金脈の発見が契機だった。この地域では[[アメリカ州の先住民族]]との最後の戦いが行われ、また先住民族による最後の重大な反乱が起こった([[モドック戦争]])。
 
[[1852年]]、カリフォルニア州議会の最初の会期で、ジェファーソン地域とシャスタ・カスケード地域を合わせた「シャスタ州」を創るという法案が提出された。その2年後にはオレゴン州南部で別の動きがあった。[[アメリカ合衆国議会]]にも州創立の提案がなされたが、保留のまま[[1859年]]にオレゴン州が州として昇格した。
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ゲイブルはこの新州の提案で、オレゴンとカリフォルニアの州境にある道の状態が、当時油で汚れており雨や雪の時には通れなくなり経済的な発展を阻害していることに、注意を惹こうとした。地元の歴史家ジム・ロックは次のように説明している。「当時は真面目な分離運動というよりも、公衆の目を意識した行為だった。結局、アメリカ合衆国憲法に従い、この提案は両方の州議会とアメリカ合衆国議会の承認を得る必要があった。」
 
ゲイブルの行動は、地域の人々が州議会は地域のニーズに無関心だと思っていたので、地域の共感を呼んだ。特にシスキュー郡は賛成の立場を採り、郡庁所在地の[[ワイリーカ (カリフォルニア州)|ワイリーカ]]が新州の首都になることとした。1941年11月、郡の代表が集い、州名をトーマス・ジェファーソンに因み、ジェファーソン州とすることを決めた。
 
カリフォルニア州北部の[[ラッセン郡 (カリフォルニア州)|ラッセン郡]][[シャスタ郡 (カリフォルニア州)|シャスタ郡]]は分離独立の動きに難色を示し、カリー、シスキュー、[[トリニティ郡 (カリフォルニア州)|トリニティ]]およびデルノルトの4郡がこの考えに同意した。
 
1941年[[11月27日]]、ワイリーカの南、アメリカ国道99号線で、一群の若者が劇的な効果を狙って猟銃を振り回し車を止めた。彼らが運転手に渡した独立宣言のパンフレットには、ジェファーソン州が「カリフォルニア、オレゴン両州に対する愛国的反乱」であり、「前もっての告知があるまで毎週木曜日に脱退」を続けるとしてあった。
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<blockquote>この「州」は保守派と急進派が混在しており政治的に多様である。多くの者は西部の人間に共通の政府と政治に対する軽視がある。「政治家とおむつは同じような理由で頻繁に取り替える必要がある」という文章が車のバンパーに貼られている。また、圧倒するようなオレゴン海岸から極めて優美なクレーターレークまで、南はカリフォルニアに聳え立つ[[シャスタ山]]まで広がる地域に住民や観光客を惹き付ける景色にすがりつきたいと願っている人も多い。この地域は、ジェファーソン公共放送のような施設によって補強された一体感を保っている。</blockquote>
 
ジェファーソンは、ワイリーカとオレゴン州のオブライエンを繋ぐ108マイル(173 km)の「ジェファーソン州景勝間道」という名前に記念されている。この道はカリフォルニア州道96号線と合衆国林道8号線に沿っている。カリフォルニアとオレゴンの州境近くには、[[クラマス川]]の景観が楽しめる展望所に、州創設の試みを説明する3つの案内板がある。
 
2004年7月時点で、ジェファーソン州と想定される地域には423,004人の人口があり、アメリカでも最少の州人口ということになる。この人口の少なさと誇張された表現によって(特にカリフォルニア州の他の部分との対比により)、今、アメリカ議会に州昇格の提案をしたとしても成立しない可能性が強いと考えられる。