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[[永徽]]2年([[651年]])、西突厥の[[阿史那賀魯]]は子の阿史那咥運とともに衆を率いて西に逃れ、[[乙毘咄陸可汗]]の地に拠り、西域諸郡を総有し、牙を雙河([[ボロ川]])及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)と号し、咄陸・弩失畢の十姓を統領した。兵数10万を擁し、西域諸国の多くが附隸した。 阿史那賀魯は阿史那咥運を立てて莫賀咄葉護(バガテュルヤブグ:官名)とし、たびたび西蕃諸部を侵掠し、[[庭州]]を寇掠した。
 
[[顕慶]]2年([[657年]])、[[高宗 (唐)|高宗]]は右屯衛将軍の[[蘇定方]]、燕然都護の[[任雅相]]、副都護の[[蕭嗣業]]、左驍衛大将軍・瀚海都督の[[婆閏|迴紇婆閏]]らに軍を率いて討撃させ、右武衛大将軍の[[阿史那弥射]]、左屯衛大将軍の[[阿史那歩真]]に安撫大使とさせた。蘇定方が曳咥河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡禄居闕啜など2万余騎を率いて迎え撃った。蘇定方は副総管の任雅相らを率いてこれと交戦し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡禄居闕啜の軽騎は遁走し、伊麗河([[イリ川]])を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本営を突き、阿史那弥射は進軍し、伊麗水(イリ川)に至り、処月,処密などの部落は各々衆を率いて来降した。阿史那弥射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に歩失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那弥射・阿史那歩真はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を[[碎葉水]](スーヤーブ河)で攻め、これも大破した。
 
阿史那賀魯は阿史那咥運と鼠耨設のもとに身を寄せようと思い、石国の蘇咄城近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネルタルカン:官名)は酒・食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて[[崑陵都護府|崑陵]],[[濛池都護府|濛池]]の2都護府を置き、諸国を役属することとなり、州府を分けて置き、西は波斯(サーサーン朝)、安西都護府に隷属した。これにより西突厥は唐の[[羈縻政策]]下に入る。