「トリエステ自由地域」の版間の差分

追記
m (ロボットによる 追加: ko:트리에스테 자유 지구)
(追記)
{{基礎情報 過去の国
|日本語国名 =トリエステ自由地域
|公式国名 ='''{{Lang|it|Territorio libero di Trieste}}'''<small>(イタリア語)</small><br/>'''{{Lang|sl|Svobodno tržaško ozemlje}}'''<small>(スロベニア語)</small><br/>'''{{Lang|hr|Slobodni teritorij Trsta}}'''<small>(クロアチア語)</small>
|建国時期 =[[1947年]]
|亡国時期 =[[1954年]]
|先代1 =イタリア王国
|先旗1 =Flag of Italy (1861-1946).svg
|次代1 =イタリア
|次旗1 =Flag of Italy.svg
|次代2 =ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
|次旗2 =Flag of SFR Yugoslavia.svg
|国旗画像 =Free Territory Trieste Flag.svg
|国旗幅 = 125px
|国章画像 =Free_Territory_of_Trieste_coat_of_arms.svg
|国章コメント =
|国章幅 = 85px
|標語 =
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 =Free Territory of Trieste map.png
|公用語 =[[イタリア語]]、[[スロベニア語]]、[[クロアチア語]]
|首都 =[[トリエステ]]
|元首等肩書 =
|元首等年代始1 =
|元首等年代終1 =
|元首等氏名1 =
|元首等年代始2 =
|元首等年代終2 =
|元首等氏名2 =
|元首等年代始3 =
|元首等年代終3 =
|元首等氏名3 =
|元首等年代始4 =
|元首等年代終4 =
|元首等氏名4 =
|元首等年代始5 =
|元首等年代終5 =
|元首等氏名5 =
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1 =
|首相等年代始2 =
|首相等年代終2 =
|首相等氏名2 =
|首相等年代始3 =
|首相等年代終3 =
|首相等氏名3 =
|首相等年代始4 =
|首相等年代終4 =
|首相等氏名4 =
|首相等年代始5 =
|首相等年代終5 =
|首相等氏名5 =
|面積測定時期1 =[[1947年]]
|面積値1 =738
|人口測定時期1 =[[1947年]]
|人口値1 =330,000
|変遷1 =成立
|変遷年月日1 =[[1947年]][[9月26日]]
|変遷2 =分割
|変遷年月日2 =[[1954年]][[10月26日]]
|通貨 =トリエステ・リラ
}}
 
'''トリエステ自由地域'''(トリエステじゆうちいき、[[イタリア語]]:Territorio libero di Trieste、[[スロベニア語]]:Svobodno tržaško ozemlje、[[クロアチア語]]:Slobodni teritorij Trsta)は、[[イタリア]]と[[ユーゴスラビア]]の間にあった地域。
 
== 概要 ==
トリエステ自由地域は、中央ヨーロッパにおける戦略的要衝であったトリエステ地域の帰属をとりあえず棚上げするために1947年に設置された。
 
[[トリエステ]]市を含む北部地域(A地区)と、[[イストリア半島]]の一部を含む南部地域(B地区)で構成されている。
 
== 歴史 ==
[[1945年]][[5月1日]]、[[ユーゴスラビア陸軍]]第4軍スロベニア第9軍団がトリエステに殺到した。また、[[イギリス陸軍]]第8軍第2師団(ニュージーランド軍)も翌日到着し、トリエステ駐留の[[ドイツ陸軍]]はイギリス陸軍に降伏した。1945年6月12日、ユーゴスラビア軍はトリエステ市内から撤退し、北部地域はイギリス軍、南部地域はユーゴスラビア軍が占領する暫定的協定が結ばれた。
 
交渉が続いていたが、[[1947年1月10日]]には[[国際連合]][[安全保障理事会]]において[[国際連合安全保障理事会決議16]]が採択、トリエステ自由地域の設置が承認された。1947年2月10日、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]とイタリアとの間に[[イタリア平和条約|平和条約]]が締結され、「'''トリエステ自由地域'''」が誕生した。しかし、英米軍が統治する'''A地区'''(面積222.5km²、人口26万2406人)とユーゴスラビア軍が統治する'''B地区'''(面積515.5km²、人口7万1000人)に分割された。トリエステ自由地域の[[通貨]]と[[切手]]を独自に発行したものの、A・B両地区の分断状況は年々深まるばかりであり、真の「自由地域」とは言えない状況であった。
 
その間にもイタリア系住民は、B地区からA地区またはイタリア本国に逃亡しつつあった。最終的にB地区に残ったイタリア系住民は1万4000人であった。
1954年、イタリアとユーゴスラビアとの間で協定が結ばれ、A地区の統治をイタリアに、B地区の統治をユーゴスラビアに委ねることになった。そして1975年の[[オージモ条約]]で正式に分割が承認された。
 
== 関連項目 ==
* [[トリエステ]]
* [[オージモ条約]]