「リチャード・ブラントン」の版間の差分

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[[Imageファイル:Richard Henry Brunton.jpg|thumb|200px|横浜にあるブラントン像]]
[[画像ファイル:Kasinosaki0.jpg|thumb|250px|[[樫野埼灯台]]、ブラントンの日本での初設計]]
[[画像ファイル:Shikokumura12s3200.jpg|thumb|250px|[[四国村]]の旧[[鍋島燈台]]退息所]]
[[画像ファイル:Brunton lighthouse at Tsunoshima.jpg|250px|thumb|[[角島灯台]]、日本でブラントンの最後の仕事]]
'''リチャード・ヘンリー・ブラントン'''(''Richard Henry Brunton'', [[1841年]][[12月26日]] - [[1901年]][[4月24日]])は、[[大英帝国|イギリス]]の[[工兵]][[技監]]にして[[建築家]]。[[スコットランド|スコットランド人]]。
 
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灯台以外でも、ブラントンは多くの功績を草創期の近代日本にもたらしている。<!--日本初の鉄橋は長崎のくろがね橋。-->日本初の[[電信]]架設([[1869年]]、東京・[[築地]] - [[横浜市|横浜]]間)のほか、[[江戸幕府|幕府]]が設計した[[外国人居留地|横浜居留地]]の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備した。また、日本最初の[[鉄道]]建設についての意見書を提出し、[[ローウェンホルスト・ムルデル]]らとともに[[大阪港]]や[[新潟港]]の築港計画に関しても意見書を出している。ほか、[[横浜公園]]の設計も委任された。
 
ブラントンは1876年3月、明治政府から任を解かれ帰国した。英国で彼は、論文「日本の灯台(Japan Lights)(Japan Lights) 」を英国土木学会に発表、賞賛を受けた。その後は建築家として、建物の設計及び建築に携わった。晩年、仕事の合間に書きためた原稿「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」をまとめ終えると、程なく世を去った。1901年(明治34年)、{{没年齢|1841|12|26|1901|4|24}}。
 
== ブラントンが設計した日本の主な灯台 ==
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* [http://gauss0jp.hp.infoseek.co.jp/tyougo.htm 灯台用語集]
* [http://www.geocities.jp/bane2161/buranton.htm ブラントン] - 銅像との出会い
 
{{灯台2}}
 
{{DEFAULTSORT:ふらんとん りちやとへんり}}