「森山崩れ」の版間の差分

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そして守山布陣の翌[[12月5日]]早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を背後から惨殺したとされる。
弥七郎正豊はその場で殺されたが、父定吉は、松平広忠に許された。
(阿部氏の直系子孫は、諸侯に二戸が列して、[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]主・[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主などとなる)。