「クニャージ・スヴォーロフ (戦艦)」の版間の差分

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本艦は日露戦争中の1904年9月に就役したが、訓練不足のまま1904年10月には第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)に編入、極東に向け出港している。その後、[[ドッガーバンク事件]]の影響や喫水の問題により、[[スエズ運河]]ではなく[[喜望峰]]経由にて主戦場たる日本の海域へ向かうこととなった。途上、十分な整備を受けられないまま、東アジアへ入る。1905年5月27日の[[対馬海峡]]通過時に日本海軍と遭遇、[[日本海海戦]]が発生している。
 
[[東郷平八郎]]提督の指揮した日本艦隊が、丁字戦法を開始した時期においては、本艦はさしたる損害を受けておらず、逆にスヴォーロフの砲撃は[[三笠 (戦艦)|三笠]]や[[浅間 (装甲巡洋艦)|浅間]]などの日本の軍艦に相次いで命中し損害を与えたという。しかし、いずれも大破又は小破を負わせたが、日本側艦艇の沈没には至らなかった。本艦の砲が発射装薬として使用していた火薬は[[黒色火薬]]であり、発砲のたびに砲口から黒煙が噴出し、照準を妨げて速射には不向きだったことも日本側に有利に働いた。やがて、日本側の主力艦隊と本艦とが再び急接近した際に、日本側から[[下瀬火薬]]を用いた砲弾が相次いで着弾した。艦体側面には直撃弾による破孔が開き、上部構造では使用していた塗料に下瀬火薬が引火して火災が発生した。砲撃による損害が蓄積すると本艦の速力は6[[ノット]]近くまで低下し、戦列より落伍した。その後、水雷戦隊や主力艦隊の挟撃を受け次第に機能を失い19時頃遂に横転し沈没した。本艦に座乗していた[[ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー]]司令長官及び生存する幕僚は沈没より以前に[[駆逐艦]][[ブイヌイ (ロシア海軍駆逐艦)|ブイヌイ]]に救出されていたが艦長の[[イグナチウス]]大佐以下乗員は残留しており全員戦死した。
 
この海戦では本来の防御力を発揮できなかったが、原因は波浪により装甲の薄い水面下が露出していたからとも、逆にボロジノ型の設計特有の重量超過で本来の装甲部分が水面下にあったからともされている。