「国鉄C62形蒸気機関車」の版間の差分

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m C62 3は1996年にC62ニセコ号の5両の客車とともに除籍されたのではないでしょうか?
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'''C62形蒸気機関車'''(C62がたじょうききかんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)の旅客用[[テンダー機関車|テンダー式]][[蒸気機関車]]である。
 
[[1948年]]から[[1949年|翌年]]にかけて[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形蒸気機関車]]の改造名義で49両([[日立製作所]]21両・川崎車輛(現在の[[川崎重工業車両カンパニー]])15両・[[汽車製造]]13両)が製造され、[[東海道本線]]、[[山陽本線]]など主要[[幹線]]の[[優等列車]]牽引に使用された。日本最大最強の旅客用蒸気機関車である。通称'''シロクニ'''。
 
== 改造までの経緯 ==
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以降も、本形式は山陽本線において[[京都駅]] - [[博多駅]]間の特急「[[かもめ (列車)|かもめ]]」や[[寝台列車|寝台]]特急「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」などの、当時を代表する優等列車の牽引に充当された。[[1958年]][[8月14日]]に[[岩国市]]付近の[[踏切]]にて、上り特急「かもめ」を牽引していた4号機と[[進駐軍]]の[[牽引自動車|トレーラートラック]]が衝突する事故があり、同機はC62形最初の[[廃車 (鉄道)|廃車]]機となっている。
 
しかし、[[幹線]][[鉄道の電化|電化]]の進展によって動軸重の大きな本形式の運用範囲は次第に狭められていき、[[1964年]]10月には山陽本線の全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅、その後は山陽本線と同様に特別甲線規格の[[呉線]]経由で運転されていた急行「[[あさかぜ (列車)|安芸]]」などの呉線内([[糸崎駅]] - [[広島駅]]間)での列車牽引に充当され続けた。もっとも、この運用も呉線の全線電化が完成した[[1970年]]9月末日には電車・電気機関車で置き換えられて終了となり、最後まで残った糸崎機関区への配置がなくなった。この日をもって、本形式1号機の新製配置以来22年に渡った、東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた。
 
=== 東北本線・常磐線 ===
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[[1958年]]には新設された特急「[[東北本線優等列車沿革|はつかり]]」の[[上野駅]] - 仙台駅間(常磐線経由)の牽引機に抜擢され、この際に尾久機関区では7・8・10・11・20・22・37の逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造した。動力逆転機のまま残った9・23・38・39と平機関区配置車も整備上の問題から逆転機駆動部のカバーを外している。特急「はつかり」は、運転開始後わずか2年の[[1960年]]に、新開発の[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]]へ置き換えられて、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、その後も常磐線内では尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、[[東北本線優等列車沿革|「みちのく」・「十和田」]]といった[[客車]][[急行列車|急行]]牽引の主力機として重用された。
 
もっとも、[[1963年]]に常磐線の平駅(現在の[[いわき駅]])以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用は[[国鉄EF80形電気機関車|EF80形]]によって置き換えられた。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平駅 - [[仙台駅]]間のみとなった。電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部(7・8・9・11・19・20)は水戸機関区を経て仙台機関区(現在の[[仙台車両センター]])に転属し、一時は東北本線の仙台駅 - [[青森駅]]間の旅客列車を牽引することも検討され、同じ目的で42も小樽築港機関区から転属した。だが、[[保線]]側から本形式の入線による[[軌道 (鉄道)|軌道]]への悪影響が懸念されたことや、既に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]の量産が始まっていたこともあり、実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は仙台近郊や常磐線で一部の列車を牽引する以外に目立った運用もないまま、[[1965年]]度中に全車[[廃車 (鉄道)|廃車]]となっている。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていた[[国鉄C60形蒸気機関車|C60形]]・[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]とほぼ同一だった。
 
その後、[[1965年]]の東北本線[[盛岡駅|盛岡]]電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された[[国鉄20系客車|20系]]による[[ブルートレイン_(日本)|寝台特急]]「[[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]]」(5・6列車)は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり<!--蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。-->、非電化のままの平駅 - 仙台駅間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。
 
なお、この「ゆうづる」には[[黒岩保美]]デザインのヘッドマークが掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際にもっとも映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。
 
新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、現車13両、換算41両、つまり総重量410tと比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいた[[ダイヤグラム|ダイヤ編成]]では特に問題なく運用可能のはずだった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれもコンディションが決して良好とは言い難かった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150kmを無停車のまま2時間15分(上り:[[表定速度]]約67km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の1965年9月に[[品川運転所|品川客車区]]配置の20系予備車を連ねた15両編成<ref>上野寄りからカニ21形 - ナハネ20形 - ナロ20形 - ナハネフ23形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナシ20形 - ナハネ21形 - ナロネ21形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネフ23形の15両。換算39.5両で、平駅 - 仙台駅間は22号機が牽引した。</ref>を用い、[[田端操駅|田端操車場]]と[[青森駅]]の間で本運用に準じたダイヤでの[[試運転]]が実施された。この試運転の結果、発[[熱量]]約6,500kcal/hで、夕張・常磐・筑豊など各産地の異なるグレードの[[石炭]]を各機関区でブレンドした通常使用の石炭では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用([[蒸気機関車|SL]][[甲組 (鉄道)|甲組]] [[仕業]]番号1)に限り、[[北海道]][[夕張炭鉱|夕張]]産の、高[[カロリー]]かつ排煙の少ない良質[[粉炭]]と[[ピッチ (樹脂)|ピッチ]]を混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)[[豆炭]]と呼ばれた発熱量8,000kcal/hの甲種[[練炭]]限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの[[余裕時分]]を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。
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そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めつつあったC62形を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず[[1956年]]9月に3号機が梅小路から発送され、[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された。その結果は良好で、破格の大形機故に危惧されていた[[軌道 (鉄道)|軌道]]負担増大の問題についても、[[保線]]側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌[[1957年]]の初頭に好調機は山陽本線を担当する各区へ配置し、その選に漏れた不調気味の余剰車から函館本線へ転用する方針<ref>当時は山陽本線の寝台特急牽引で本形式の限界性能発揮を必要とする運用が継続しており、好調機は可能な限りそちらの運用へ優先的に充当する必要があった。</ref>の下、宮原機関区所属で保留車となっていた、東海道時代に[[除煙板]]につばめマークを取り付け人気を集めた2号車、および30・42号機と、梅小路機関区で余剰となっていた27・32・44号機の6両が選出され、[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]から流用されていた[[戦時設計]]による粗製濫造[[ボイラー]]の新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、[[小樽運転所|小樽築港機関区]]へ転属の手続きがとられた。
 
小樽築港機関区への配属後の本形式は、[[函館本線]]で「[[オホーツク (列車)|大雪]]」、「[[まりも (列車)|まりも]]」、[[ニセコライナー|「ていね」→「ニセコ」]]などの急行列車牽引に使用され、もっとも過酷な使用条件の山線区間の急行運用は[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]による[[重連]]からC62形重連、または前部[[補機]]D51形と本務機C62形による重連に変更された。この運用では、つばめマーク付のC62 2が重連の先頭に立つことが多かった。これは[[鉄道ファン|ファン]]サービスが目的ではなく、前補機は[[長万部駅|長万部]]でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためである。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用することは、検修側、運用側の両者にとって望ましかったとされる。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。
 
また、函館本線の[[七飯駅]] - [[大沼駅]](旧:軍川)間については、[[1966年]]10月に下り線の上り勾配緩和のために建設された、通称:"'''藤城線'''"と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、[[渡島大野駅|渡島大野]]・[[仁山駅|仁山]](旧:仁山[[信号場]])を通る、[[仁山峠|仁山]]越えの従来線(現在、渡島大野・仁山を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっている)経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転されていた。ただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」については、通常期には、前述のとおり減車されていたため、下り列車の仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引だった。
 
なお、42号機は、函館本線経由で函館駅 - 札幌駅間を結ぶC62形牽引の昼行急行が「まりも」1往復のみとなった[[1963年]]10月のダイヤ改正時に、[[仙台機関区]]に転属となっている
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なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定で、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形は当時1号機が存在したため当初は候補に挙げられていたが、2号機の人気には逆らえず、変更となった模様である。
[[File:C62 KYOTO.jpg|thumb|240px|right|京都駅1番線で機回し中のC62 2(1997年9月撮影)]]
[[1997年]][[9月11日]]午前10時、[[京都駅]]の新[[駅ビル]]落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはEF65の牽引により回送されたが、その際1番線ホーム(在の0番線ホーム)で[[機回し]]を行った。その間20分ほど。新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形がを展示されるという演出がなされた。
 
[[File:C62_2_steam_locomotive_at_the_Dream_Train_1999_exhibition_in_Shinagawa_Station.png|thumb|240px|right|品川駅10番線で展示中のC62 2(1999年)]]
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[[File:C623 Express Niseko.JPG|急行ニセコ|thumb|240px|right|在りし日のC62ニセコ号(1994年)]]
{{Sound|JR hokkaidou c62 niseko c62 3 suhahu44 7 yoichi.ogg|[[C62 3]]牽引によるC62ニセコ号の走行音(スハフ44 7にて収録、上り9162列車)|(函館本線小樽駅 - 余市駅間、1990年9月1日)}}
また、[[国鉄分割民営化]]直前の1986年[[10月3日]]、[[小樽市]]の北海道鉄道記念館(現在の[[小樽市総合博物館]])に静態保存されていた3号機が旧[[手宮線]]経由で小樽築港機関区に運び込まれ、有火状態への仮復旧が行われた。[[1987年]]3月31日から同年4月1日にかけての[[国鉄分割民営化]]イベントへの仮復旧状態での参加の後、同年4月より[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]で徹底的な修繕が実施されて[[動態保存中の蒸気機関車|動態復元]]と車籍復帰が実施され、翌[[1988年]]から[[函館本線]][[小樽駅]] - [[倶知安駅]]間で、[[臨時列車|臨時]][[快速列車|快速]]「'''[[C62ニセコ号]]'''」として復活運転を開始した。[[1990年]]に運転区間は小樽駅 - [[ニセコ駅]]間に拡大され、ニセコ駅には専用の[[転車台]]([[新得機関区]]に以前あったものを転用)も設置された。しかし、本機の運転を行っていた北海道鉄道文化協議会が全般検査費用の資金を確保できず、また走行に必要な費用の確保もままならなくなり、さらに[[1995年]]に軸受を[[焼きつき|焼損]]する事故まで発生、やむを得ず同年11月3日をもって運転終了となった。この後、北海道鉄道文化協議会は解散した。現在、JR北海道は再び蒸気機関車を復活させており、現在の運転はJR北海道自身で行っている。ただし、小型で汎用性が高く、運用コストの低廉な[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]での運転となっている。
 
3号機は、将来の復活の可能性に備え苗穂工場に保管されることとなり、しばらくの間車籍を保持していたが、車両の状態や、C11形で行われているイベントの状況に鑑み、2000[[1996]]に除籍され、[[静態保存]]に戻った。[[2009年]]2月、JR東日本による新たな蒸気機関車動態復元の調査の際に3号機がリストアップされたが、JR北海道は同機を譲渡せず、復活機は[[群馬県]][[伊勢崎市]]に保存されていたC61 20に決定した。2010年10月には、当機は準鉄道記念物に指定された。
[[File:JNR C62 3.JPG|thumb|right|240px|[苗穂工場で2007年[[鉄道の日]]イベントで公開されたC62 3、[[国鉄781系電車|クハ780-1]]とともに体験乗車に使用された。]]
{{Main|国鉄C62形蒸気機関車3号機}}
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: ボイラ側面にある砂撒き管が片側1本ずつ外部に露出している変形機。
; 8・9・10・37号機
: [[1957年]](昭和32年)に大宮工場(現在の[[大宮総合車両センター]])で列車番号表示板が試験的に取り付けられた。本採用にはならなかったが表示板受けは後年まで残った。また、9号機は仙台機関区所属時代に前照灯をシールドビーム2灯としており、同時期に東北本線で活躍していた[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]にも通じる特異な外見となっていた。
; 12号機
: 除煙板に『つばめマーク』が付けられたという伝説がある車両。ただし、映像などは見つかっておらず文字どおり幻のマーク。外部リンクを参照のこと。