「徳川宗勝」の版間の差分

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===尾張藩主就任後===
この頃、宗春の放漫財政によって尾張藩の財政窮乏化は深刻化していた。このため藩主となった宗勝は、藩財政再建を主とした藩政改革を試みる。もともと幼少時から苦労を知っていることもあって自ら倹約を率先して行い、領民を苦しめないために増税を行なわないという、いわゆる緊縮財政政策を採用したのだが、これが大成功して藩財政は再建されることとなった。ただしこれには、先代・宗春の頃に築かれていた基盤があってこそという意見もある。
 
ともあれ宗勝が名君であったのは明らかで、[[布施蟹養斎]]を登用して[[藩校]]・明倫堂の前身となる学問所を創設、さらに様々な文化的書物の編纂の他、刑法の整備などもおこなっている。刑法の整備においては寛容な一面がある一方、盗賊取締りのために死刑制度を復活させるなどの厳しい一面もあった。