「カール・ハウスホーファー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
模様砂漠2 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
模様砂漠2 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目:
== 経歴 ==
===軍歴===
1869年8月27日、[[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]にて出生。[[1887年]]、[[ドイツ帝国]]のバイエルン王国(1871年にドイツ帝国の州となった)第一野砲連隊「{{Lang|de|Prinzregent Luitpold}}」に入営。ドイツ[[陸軍士官学校]]、野砲学校を経て{{lang|de|[[:de:Preußische Kriegsakademie|Preußische Kriegsakademie]]}}(ドイツ帝国[[陸軍大学校]])の[[参謀]]課程を修める。1896年には[[ユダヤ人]]の娘マーサと結婚し、二人の子をもうけた。[[1903年]]より同陸軍大学校にて[[戦史]]([[軍事史]])を教える。
 
{{和暦|1908}}から{{和暦|1910}}まで、[[日本]]のドイツ[[大使館]]付[[武官]]として勤務。[[1911年]]から[[1913年]]に博士論文「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」をまとめ、{{Lang|de|Doktor der Philosophie}}(日本では[[博士 (哲学)]]に相当)を取得。[[第一次世界大戦]]には[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に従軍し[[:de:Generalmajor|{{Lang|de|Generalmajor}}]](ドイツ陸軍[[少将]])に昇進。
 
===ヒトラーとの出会い===
戦後は[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]にて大学教授資格を取得。ハウスホーファーは[[地政学]]の創始者の一人である。1919年にハウスホーファーは教え子として[[ルドルフ・ヘス]]と知り合い、1921年には[[アドルフ・ヒトラー]]と出会った。1923年の[[ミュンヘン一揆]]の際には逃亡するヘスを一時匿い、[[ランツベルク刑務所]]収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーははハウスホーファーの生存圏の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)概念を理解が表層的していものであいし、理解すための正しい展望も持ち合わせていない考えいう印象を受けたし、そう確信した」と見り、再度本格的に[[フリードリヒ・ラッツェル]]などの地政び直す基礎の講義をしよう勧めとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受け入れられなかっ者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」事によるものであるとみていた<ref>1945年10月17日、ニュルンベルクにおけるハウスホーファーの証言、[[ジョン・トーランド]]著 [[永井淳]]訳「アドルフ・ヒトラー」([[集英社文庫]])第一巻、393-394p ISBN 978-4087601800</ref>
 
===ナチス政権下===
16行目:
[[1939年]]に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]が運営する、[[ドイツ民族対策本部]](ドイツ国籍を有しない国外ドイツ人との連携機関)に籍を置く。
 
[[1941年]]5月10日に教え子のヘスが、イギリスとの単独和平を目論み[[メッサーシュミットBf110]]で渡英した際には、事前にヘスと会っていたこと、息子の[[アルブレヒトがヘ・ハウに対してホーファー|アルブレヒト]]([[:en:Albrecht Haushofer|en]])がイギリスにおける接触先として[[ハミルトン公]][[ダグラス・ダグラス=ハミルトン]]を紹介していたことが問題視された。そして同年[[独ソ戦]]が開始されたことから、地政学上の見地から「ソ連との関係を強めるべき」と主張したハウスホーファーとヒトラーの関係は疎遠になる。さらにアルブレヒトが1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺計画]]に関わっていたことで[[秘密警察]]の監視下に入った。[[1945年]]にアルブレヒトは収監され、[[1945年]]に処刑された。
 
===死去===