「徳川頼職」の版間の差分

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[[延宝]]8年([[1680年]])1月17日、[[紀州藩]]第2代藩主・[[徳川光貞]]の三男として生まれる。[[幼名]]は'''長七'''。元服して[[松平氏|松平姓]]を与えられて'''松平頼元'''と称し、その後'''松平頼職'''に改め、[[従四位|従四位下]][[近衛府|左近衛権少将]]の官位を受けた。
 
[[元禄]]10年([[1697年]])、[[越前国]][[丹生郡]][[高森藩]]に3万石を与えられ[[紀州徳川家]]から別家を興す。
 
[[宝永]]2年([[1705年]])に兄で第3代藩主の[[徳川綱教]]が病気に倒れたため、その養子となって[[徳川氏|徳川姓]]に復し、5月綱教が薨去するによって紀州藩を相続したが、8月に父光貞が薨去し、頼職もその臨終に駆けつけるべく江戸から早馬で紀州へ向かい、臨終に間にあったが、その後早馬等で無理をして国元へ駆けつけたのが災いして間もなく病に倒れ1ヶ月後の9月8日に26歳の若さで病のため卒去した。藩主を相続してからすぐに没したため、紀州藩主の例である[[従二位]][[大納言|権大納言]]の官位も[[征夷大将軍|将軍]]の[[偏諱]]も受けていない。法名:深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士。藩内では綱教から数年間に3人目の葬儀を出す異常事態となり、藩財政悪化に拍車がかかった。
 
妻子はなく、弟の頼方が[[徳川吉宗]]となって紀州藩を継いだ。
 
== 官職位階履歴 ==
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* 元禄10年([[1697年]])4月15日 - [[越前国]][[高森藩]]3万石の藩主となる。
* [[宝永]]2年([[1705年]])
** 5月 - [[紀伊国]][[紀州藩]]主である兄の[[徳川綱教]]の養子となり、藩主後継者となり、[[徳川氏|徳川]]の苗字を称する。
** 6月18日 - 紀州藩主となる。
** 9月8日 - 卒去。墓所:[[和歌山県]][[海南市]]の慶徳山[[長保寺]]。法名:深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士。
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{{DEFAULTSORT:とくかわ よりもと}}
[[Category:松平氏|紀よりもと]]
[[Category:紀州徳川氏|よりもと]]
[[Category:江戸の大名]]