「ミシルルー」の版間の差分

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== 歴史 ==
今日我々は、この歌を歌う人々によってこの歌がどこに由来するかを推測することが出来る。この歌は、ギリシア人、トルコ人、アラブ人、ユダヤ人たちの間で聞くことができる。よりよい説明は、[[オスマン帝国]]の支配領域で生まれた、という説明である。説のひとつは現在の[[トルコ]]と[[ギリシア]]の国境地方のある所で、すなわち、サロニカ([[テッサロニキ]])と[[イスタンブル]](コンスタンティノープル)の間のどこかで生まれた、とする。歌の名前はギリシア語とトルコ語の両方で「エジプト人の娘」を意味する。この歌は、他の歌、例えばウスクダラ(Üsküdar’a Gider İken)、カティナキ・モウ・ヤ・セナ(Κατινάκι μου γιά σένα/Katinaki mou ya sena)などと同様に、ギリシアやオスマン帝国中に流布した。また、ローカルのユダヤ人社会によっても拾われ、そこからも広まった。 誰が元々この歌を書いたのかは歴史の中に埋もれ、失われている。トルコ人とギリシア人はともにこの歌を自分たちのものであると主張しており、彼らの無限の論争はいつ果てるとも知れない。また我々は、この歌がいつ書かれたかも正確に突き止めることが出来ない。19世紀ではあるのだが。
この歌は[[1927年]]ギリシアの[[アテネ]]でレベティコ(レンベティコ/レベティカ/レンベティカ)というギリシアの大衆音楽を演奏していたミハリス・パトゥリノス(ギリシア語:Μιχάλης Πατρινός,ラテン文字転記:Michalis Patrinos)の楽団によって最初に演じられたと言われる。ほとんどの初期のレベティカの歌と同様に歌の実際の作曲家は判明していない。そしてその所有権は楽団のリーダーにあった。旋律はおそらく楽団のメンバー達によって協力して作曲された。これはその時代よくあることであった。最初の歌詞はパトゥリノス自身によって書かれたと見られている。パトゥリノス(元々[[イズミル|スミルナ]]に住んでいた)は歌をエジプト人の娘を意味するムスルルMısırlıあるいはミシルルーΜισιρλούと命名した。元々、歌はレベティコの様式で、より遅いテンポと異なったキーで、トルコの(あるいはギリシアの)テンポのゆったりしたダンスである[[チフテテリ|チフテテッリ]]の舞踊のための歌として作曲された。[[1920年代]]のギリシャの都市部には西欧の大衆音楽が流入する一方で、[[トルコ]]領となった[[小アジア]]から住民交換によりギリシャに移住してきたギリシャ正教徒が[[オスマン帝国]]の様々な音楽的伝統を持ち込んでおり、こうした音楽の交配からレベティコという新しい音楽が芽生えた。ミシルルーも他のいくつかの歌と同じくレベティコの勃興と共に生まれた曲のひとつである。
 
しばしば紹介されるのが、この歌は[[1927が1930]]ギリシアの[[アテネ]]で頃、レベティコ(レンベティコ/レベティカ/レンベティカ)というギリシアの大衆音楽を演奏していたミハリス・パトゥリノス(ギリシア語:Μιχάλης Πατρινός,ラテン文字転記:Michalis Patrinos)の楽団によって最初に演じら録音された言われいう説であ。この説は以下の通り。ほとんどの初期のレベティカの歌と同様に歌の実際の作曲家は判明していない。そしてその所有権は楽団のリーダーにあった。旋律はおそらく楽団のメンバー達によって協力して作曲された。これはその時代よくあることであった。最初の歌詞はパトゥリノス自身によって書かれたと見られている。パトゥリノス(元々[[イズミル|スミルナ]]に住んでいた)は歌をエジプトの娘を意味するムスルルMısırlıあるいはミシルルーΜισιρλούと命名した。元々、歌はレベティコの様式で、より遅いテンポと異なったキーで、トルコの(あるいはギリシアの)テンポのゆったりしたダンスである[[チフテテリ|チフテテッリ]]の舞踊のための歌として作曲された。[[19201930代]]のギリシャの都市部には西欧の大衆音楽が流入する一方で、[[トルコ]]領となった[[小アジア]]から住民交換によりギリシャに移住してきたギリシャ正教徒が[[オスマン帝国]]アナトリアの様々な音楽的伝統を持ち込んでおり、こうした音楽の交配からレベティコという新しい音楽が芽生えていた。ミシルルーも他のいくつかの歌と同じくレベティコの勃興と共に生まれた曲のひとつである。
 
リチャード・スポットウッドRichard Spotwoodは"''Ethnic Music on Records, Volume 3: Eastern Europe''"の中で1927年にテトス・ディミトゥリアデス(ギリシア語:Τέτος Δημητριάδης,ラテン文字転記:Tetos Dimitriades,Tetos Demetriades)による録音があると紹介している。
 
[[1930年代]]以降、[[アメリカ合衆国]]に移民したギリシャ人とともにこの曲もアメリカに持ち込まれ、[[1940年代]]以降[[ジャズ]]や[[イージーリスニング]]の様々な楽団が独自の英語歌詞をつけて演奏するようになった。S. Russell、N. Wise、M. Leedsが英語の歌詞を書いている。
 
1941年に、ニック・ルーバニスNick Roubanis(Nikos Roubanis, Νίκος Ρουμπάνηςとも,ギリシア系アメリカ人の音楽のインストラクター)は作曲家として自分をクレジット表記しながら、この歌のジャズのインストゥルメンタル版をリリースした。1927年にテトス皆が同意するひとつの事。この歌はニックディミトゥリアデルーバニ(ギリシア語:Τέτος Δημητριάδης,ラテン文字転記:Tetos Dimitriades)によって歌われ、作詞作曲がニック・ルーバニスとクレジットされ、ニューヨークで録音された音源があるため、ギリシアものでは作曲者としてパトゥリノス以外にルーバニスの名もあがる'''無い'''
 
[[1950年代]]以降は「[[エキゾチカ (音楽)|エキゾチカ]]」と呼ばれる、異国調を前面に出した[[ラウンジミュージック]]の一種におけるスタンダードナンバーとなった。[[1962年]]には[[ディック・デイル|ディック・デイル&デルトーンズ]]の演奏による[[サーフミュージック]]アレンジのミシルルーが全米でヒットしており、このバージョンが(「ミザルー」(Miserlou)のタイトルで)今日よく知られている。ディック・デイル版は各国のサーフロック・バンドにカバーされたほか([[1963年]]の[[ザ・ビーチボーイズ]]のアルバム「[[サーフィン・U.S.A.]]」でもカバーされている)、[[1994年]]の映画『[[パルプ・フィクション]]』で主題曲となり再び広く知られるようになった。
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