「樋口兼光」の版間の差分

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[[元暦]]元年([[1184年]])正月、義仲に離反した[[源行家]]・[[源義資]]を討伐するため、[[河内国]]石川へ出陣するが、その間に鎌倉源氏軍が到着し、敗れた義仲は[[粟津の戦い]]で討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で[[源義経]]の軍勢に生け捕られた。26日、義仲らの首と共に[[検非違使]]に身柄を引き渡され、2月2日、[[渋谷高重]]によって斬首された。
 
『[[吾妻鏡]]』によれば、兼光は[[武蔵国]][[児玉党]]の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞するしたが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという。
 
== 『平家物語』における最期 ==