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'''阿部 忠秋'''(あべ ただあき、[[慶長]]7年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1602年]][[9月4日]]) - [[延宝]]3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]([[1675年]][[6月25日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[下野国|下野]][[壬生藩]]・[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]藩主。忠秋系阿部家初代。[[徳川家光]]・[[徳川家綱|家綱]]の2代にわたって[[老中]]を務めた。同じく老中の[[阿部重次]]は従兄にあたる。「[[細川頼之]]以来の執権」と評せられた。<ref>森銑三著作集 続編 第一巻 95ページ</ref>
 
== 人物 ==
[[慶安の変]]後の処理では[[浪人]]の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は[[明治時代]]の[[歴史家]][[竹越与三郎]]より「([[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]・[[松平信綱]]などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」(『[[二千五百年史]]』)と高く評価された。鋭敏で才知に富んだ松平信綱に対し、忠秋は剛毅木訥な人柄であり、信綱とは互いに欠点を指摘、補助しあって幕府の盤石化に尽力し、まだ戦国の遺風が残る中、幕政を安定させることに貢献した。[[関ヶ原の戦い]]を扱った[[歴史書]]・『[[関原日記]]』(全5巻)の編者でもある。
 
忠秋は責任感が強くまた子供好きであり、捨て子を何人も拾って育て、優秀な奉公人に育て上げた。子供の遊ぶ様子を見るのが、忠秋の楽しみであった。
 
== 略歴 ==
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*寛文6年(1666年)2月2日、[[諸国山川掟]]を発令した一人。3月29日、老中職を免ぜられる。
 
== エピソード逸話 ==
ある寺の僧侶が他国の寺院へ転属する命令を頑として受け入れないため、松平信綱とふたりで説得に出かけた。最初に信綱が理路整然と僧侶に転属の理由を述べ説得したがますます反発して他の方が適任だと言う始末であった。次に忠秋がどうしても行きたくないのかと聞き、お咎めを受けても行きませんと僧侶は答えたので、では咎めとして転属を申し付けると忠秋が言ったとたん、僧侶は知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)と笑いながら申し付けを受け入れたと言う。
 
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由比正雪の乱が起こった折、[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]や[[松平信綱]]らは、江戸から浪人を追放することを提案し、他の老中らもその意見に追従したが、ただ一人忠秋のみは、江戸に浪人が集まるのは仕事を求めるゆえであって、江戸から浪人を放逐したところで根本的な問題の解決にはならないと、性急な提案に真っ向から反対し、理にかなった忠秋の言い分が最終的には通った。
 
『駿台雑話』などには、忠秋と鶉の話が収められている。それによると、忠秋は鶉の飼育を趣味としており、多くの鶉を飼っていた。ある時、町の鳥屋で非常に良い鶉を見つけ、これを欲したが、値段が高かった為購入を躊躇った。すると後日、忠秋がその上質な鶉を欲している事を知った出入りの者が、これを入手して忠秋に贈った。忠秋はその鶉を受け取ったが、程なくしてこれまで飼っていた鶉共々全ての鶉を野に離し、以降鶉を飼おうとはしなかった。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
*森銑三著作集 続編第一巻
 
 
{{壬生藩主|阿部氏||1635-1639}}