「織田常松」の版間の差分

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応永年間頃、織田常松は在京し、守護斯波氏を補佐する守護代の地位にあり、常松に代わって同族の[[織田常竹]]が[[代官|又守護代]]として尾張を在地支配をしていたとされる。
 
死去没年ついて『前野家文書』「[[武功夜話]]」によると、[[応永]]8年(1401年)、越前で戦死したとされる。また別の資料では『満済准后日記』によると、[[正長]]元年([[1428年]])8月6日織田常松は病に侵され危篤状態あったとされ、[[醍醐寺]]住職の[[満済]]が織田常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これ以後文献から名が途絶えることからこの頃まで生存が確認される。
 
== 関連項目 ==