「三刀屋久扶」の版間の差分

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永禄12年([[1569年]])、[[山中幸盛]]率いる[[新宮党]]遺児、[[尼子勝久]]が忠山城にて尼子再興軍が挙兵、これに毛利氏に対して不満を持っていた尼子旧臣は続々と参加。久扶はこの勝久の挙兵に参加しようとしたものの、他家臣団からかつての行動から拒絶され、毛利側に参加している。しかし、この後に[[布部山の戦い]]にて再興軍は敗走、これに勝久は逃亡する。天正2年([[1574年]])に尼子再興軍は因幡にて活動を開始。久扶は毛利氏武将[[吉川元春]]と共に[[私部城]]で交戦している。久扶は同時期に[[毛利輝元]]への起誓文を提出し忠誠を誓っていはいるものの、軍役を拒否することもあり、かなり独立した権限を持っていたようである。再興軍は因幡から[[織田信長]]家臣[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の配下となる。天正6年([[1578年]])、[[上月城の戦い]]が起き、久扶は参加している。再興軍は秀吉の転進により孤立し、上月城は開城。尼子勝久は切腹し、尼子再興の夢は途絶えた。
 
天正14年([[1586年]])、毛利氏に従って[[小倉城の戦い]]に参加。[[肥後国]]にて国一揆を鎮圧するため、子である孝扶と共に出陣している。天正16年([[1588年]])、毛利輝元・[[吉川広家]]・小早川隆景が上洛した際、久扶も同行し[[徳川家康]]と面会していると言われている。日和見で常に有利な側に付く久扶であったが、この家康との面会を主君輝元から嫌疑をかけられ、ついに本領を没収、追放されている。
 
その後、京に上りの四日市村にて死去した。
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