「イスラエルの失われた10支族」の版間の差分
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北王国のイスラエルは、現在の[[ユダヤ人]]のような一神教的宗教を奉じていなかった可能性が高い。エルサレムの[[ヤハウェ]]信仰にも一定の尊重を払っていたが、首都サマリヤに金の子牛の像をおいて[[祭|祭祀]]の中心としていた。
北王国は[[紀元前722年]]に[[アッシリア]]により滅ぼされ
なお、南王国のユダは、[[紀元前586年]]に[[新バビロニア]]に滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としての[[ユダヤ教]]を確立することになる。「ユダヤ」の名は直接には[[ローマ帝国]]の[[ユダヤ属州]]の名からきている。ユダヤ人は宗教的な性格を強くし、のちに[[商業]]を営みつつ世界に広がっていくことになるが、この[[バビロン捕囚|バビロニア捕囚]]時代に他民族の中においてユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られた。
ユダヤに対して、旧北王国の版図は、ヘレニズム期には「[[サマリア]]」また「[[ガリラヤ]]」と呼ばれた。サマリアには[[ゲリジム山]]を中心にユダヤ教と一部を共有する独自の祭祀が発達し、この人々が「[[サマリア人]]」と呼ばれた。今日の研究者は、サマリア人は婚姻などによって周辺民族と同化したかつての10支族の子孫であると推測している。一方、復興した[[エルサレム神殿]]を中心とする宗教的[[同一性|アイデンティティ]]を固めていたユダヤ人は、祭祀を異にするサマリヤ人を同族と認めず、異教徒として扱った。捕囚期以後のユダヤ人は、文化的アイデンティティを確保するために、異民族との通婚を嫌い、2支族においても異民族と結婚したものを、ユダヤ人のコミュニティから排除することが行われた。このためユダヤ人の側からは10支族とサマリア人の関連を認めず、失われたとする見方が生じた。
研究者のなかには、2世紀初頭の[[バル・コクバの乱]]で[[ローマ帝国]]によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、のちに[[イスラム教]]に改宗し、現在の[[パレスチナ人]]の遠祖となったと指摘するものがある。一方、いわゆる[[シオニズム]]を支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。
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