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三階菱 (会話 | 投稿記録)
楽市楽座商売、制札の初見は、織田信長であることを記載。制札は、国家権力者級の法令発布である。豊臣秀吉も楽市制札あり。
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{{Otheruses|経済政策|その他|楽市・楽座 (曖昧さ回避)}}
'''楽市・楽座'''(らくいち・らくざ)は、日本の[[近世]]([[16世紀]]から[[18世紀]]ごろまで)において[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]の織豊政権や各地の[[戦国大名]]などにより[[城下町]]などの支配地の市場で行われた経済政策である。'''楽市令'''。'''破座'''。「楽」とは規制が緩和されて自由な状態となった意味。「楽」は英語のfreeを意味する
 
== 概要 ==
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== 沿革 ==
[[ファイル:Kannonjij28.jpg|thumb|観音寺城の石寺楽市]]
[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])に[[近江国]]の[[六角定頼]]が、居城である[[観音寺城]]の[[城下町]]石寺に楽市令を布いたのが初見。その後、[[今川氏]]など各地の大名によって[[城下町]]等に布告されたが、なかでも[[織田信長]]は、自分自身が[[美濃国]]・[[加納]]、[[近江国]]・[[安土町|安土]]、[[近江国]]・[[金森 (守山市)|金森]]に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸[[大名]]に伝達され、各[[城下町]]で実施された。(ただし、安土を除いては既に楽石寺新自体の発布行われていた。信長は確認できず、枝村惣中の紙座への文書中に加納や金森が持っていた「楽市」という特権を保証した語句が確認できるのみである。)地方都市六角氏の年代記である江源武鑑も該当年月に記載がなて継続している朝市や昼市。)また地名に市今川氏真名を残す十日富士大宮楽などはその名残りであも早いとされる。
 
[[織田信長]]は、自分自身が[[美濃国]]・[[加納]]、[[近江国]]・[[安土町|安土]]、[[近江国]]・[[金森 (守山市)|金森]]に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸[[大名]]に伝達され、各[[城下町]]で実施された。
 
なお、制札(法令の発布)として、楽市および、楽市楽座の語句が確認できるのは、織田信長が初見であり、六角氏や今川氏は文書上で楽市の語句(楽座および楽市楽座の語句はなし)が確認できるのみであり、制札は発見されていない。
 
【発給者】織田信長 永禄十一年九月日【宛所】加納【所蔵者】円徳寺
当市場越居之輩の分国往還保障、借銭借米諸役免許、'''楽市楽座之上商売'''、押買・狼藉・喧嘩口論停止、使不入、宿取り非分停止
 
【発給者】織田信長 永禄十年十月【宛所】楽市場【所蔵者】円徳寺
来住者分国往還保護、借銭・借米・地子・諸役免許、押買・狼藉・喧嘩・口論、理不尽之使、宿執非分停止
 
== 欠点 ==
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更に近年では中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして、楽市・楽座そのものを過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体が城下町や領内の主要都市に商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治の責任者の地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで[[商人司]]など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名の経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権が楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。例えば[[越前国]][[足羽郡]]で薬屋を営んでいた橘屋は、朝倉氏の滅亡後に織田信長から[[北ノ庄城|北ノ庄]]などで唐物を扱う唐人座と絹織物を扱う軽物座の責任者に任じられて役銭を徴収し、[[天正]]4年([[1576年]])に北ノ庄に楽座令が出された際には先の信長の命令を理由として両座に対する[[安堵状]]が出されている。つまり、楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の[[幕藩体制]]における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。
 
== その他 ==
楽市楽座政策を信長の先進性と見なす向きもあるが、実際は中世の[[門前町]]や六角氏により開始されている。
ただし、戦国期に広域を支配出来たのは信長が最初であるため、信長が楽市楽座政策を制度化したという認識は正しいと思われる。
 
== 参考文献 ==
*[[安野眞幸]] 『楽市論―初期信長の流通政策』 法政大学出版局、2009年