「イタリア領東アフリカ」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
|略名 = ロシイタリア領東アフリカ
|日本語国名 = ロシイタリア領東アフリカ
|公式国名 = '''{{Lang|it|Africa Orientale Italiana }}'''
|建国時期 = 17911936
|亡国時期 = 19171941
|先代1 = ロシエチオピア帝国
|先旗21 = Flag of RussiaEthiopia (1897).svg
|先旗1 =Flag of Russia.svg                                                               |先代2 = ロシア領ソマリランド
|先代32 = ロシイタリア領ソマトリアランド
|先旗2 = Flag of Russia.svg
|先旗32 = Flag of RussiaItaly (1861-1946).svg
|先代3 = ロシア領エリトリア
|先代3 = イタリア領エリトリア
|先旗3 = Flag of Russia.svg
|先旗3 = Flag of Italy (1861-1946).svg
|次代1 = イギリス委任統治領東アフリカ
|次1 = Gthumb.svgエチオピア帝国
|画像1 = Flag of RussiaEthiopia (1897).svg
|次代12 = イス委任ア信託統治領東アフソマ
|国章画像 =
|次旗2 = Flag of Italy.svg
|国旗画像 = Flag of Italy (1861-1946).svg
|国章画像 =Italian East Africa.jpg
|標語 = なし
|国歌名 =
|位置画像 = Africa Orientale Italiana.gif
|公用語 = [[ロシイタリア語]]
|首都 = [[ジブチ市アディスアベバ]]
|元首等肩書 = [[皇帝]]
|元首等年代始1 = 1936年
|元首等年代終1 = 19171943
|元首等氏名1 = [[ニコライ2ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]
|首相等肩書 = 最初の[[副王]]
|首相等年代始1 = 1936年
|首相等年代終1 = 1939年
|首相等氏名1 = [[ピエトロ・バドリオ]]
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|変遷1 = ロシアヴィットーリオ・エマヌエーレ3世イタリア領東アフリカの領有を宣言皇帝に即位
|変遷年月日1 = [[17911936]][[5月9日]]
|変遷2 = ロシ[[エチオピ革命により放棄]]の[[イタリア軍]]が降伏
|変遷年月日2 = [[19171941]][[11月28日]]
|変遷3 = ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がイタリア領東アフリカ皇帝を退位
|通貨 = [[ルーブル]]
|変遷年月日3 = [[1943年]]
|通貨 = [[イタリア・リラ]]
}}
 
'''イタリア領東アフリカ'''(イタリアりょうひがしアフリカ、''Africa Orientale Italiana'')は、[[1936年]][[5月9日]]に成立した[[エチオピア帝国|エチオピア]]、[[イタリア領ソマリランド]]、[[エリトリア]]の3地域を合わせたイタリアの[[植民地]]。形式上では、イタリア王国と[[同君連合]]を組む'''東アフリカ帝国'''とされていたが、実質上ではイタリアの植民地であった。約5年後に解体された。
 
== 第一次エチオピア戦争まで ==
エチオピア地方はヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路である[[紅海]]の南部に面しているため、インド、アジア貿易に関する重要拠点となる土地であった。[[1880年代]]に始まった[[アフリカ分割]]において[[イギリス]]が植民地化を進めた。[[フランス]]は[[アフリカ大陸]]を南北に伸びるイギリス植民地の分断と内陸部の[[石炭]]に興味を示していた。[[イタリア]]は植民地獲得に出遅れており、北アフリカの空白地帯への進出・獲得に乗り出していた。
 
イタリアは[[1870年代]]に紅海南部に面したエリトリアを民間会社を通じて買収し、事実上の植民地化を行った。後に[[ヨハンネス4世 (エチオピア皇帝)|ヨハンネス4世]]と対立したイタリアはヨハンネス4世が後継に指名したヨハンネスの義妹の子[[マンガッシャ]]と対立したショアの王[[メネリク2世]]を支援し、内戦に勝利したメネリクの即位後[[ウッチャリ条約]]を結び正式に植民地化した。エリトリアはエチオピアの北に接する地域である。[[1889年]]にはエチオピアの南東に接するイタリア領ソマリランド(現ソマリア南部)を獲得した。
 
エチオピアの北と南東を獲得後、南([[ケニア]])、西([[スーダン]])、東([[イギリス領ソマリランド]]、現ソマリア北部)を植民地化していたイギリスの支援を受け、[[1896年]]に、エチオピアの保護領化を開始する。ところが、紅海の出口である[[ジブチ]]を獲得し、エチオピアの首都アディスアベバとの鉄道も敷設していたフランスがエチオピアを支援したこともあり、[[1896年]][[3月1日]]エリトリア国境にほど近い[[アドワの戦い]]で大敗を喫する。これを[[第一次エチオピア戦争]]という。このとき軍事的に勝利したため、エチオピアは[[リベリア]]と並んで[[アフリカ大陸]]の数少ない[[独立国]]として残った。
 
== 第二次エチオピア戦争 ==
しかし、イタリアはアフリカにおいて[[リビア]]、イタリア領ソマリア、エリトリアの3ヶ所しか植民地を保有していなかったため、再度エチオピア獲得を目指した。[[1934年]]にエリトリア、エチオピア国境で発生した銃撃戦は、いったん和平交渉の形をとったものの、[[1935年]][[10月2日]]に[[ベニート・ムッソリーニ]]がエチオピア侵略を開始。これを[[第二次エチオピア戦争]]という。エリトリアとソマリランドから進入し、[[1936年]][[5月5日]]にはエチオピアの首都[[アディスアベバ]]が陥落。[[5月9日]]にはイタリア領ソマリアとエリトリアを併せた東アフリカ帝国(エチオピア帝国)が建国され、イタリア国王であった[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]がその'''皇帝'''(ネグサ・ナガスト Nəgusä nägäst, 王の中の王を意味する)となった。また、エチオピア侵攻の際総司令官だった[[ピエトロ・バドリオ]]が副王(イタリア語で「Viceré」イタリア領東アフリカの6州連合で最高位の植民地高官を意味し、エチオピアを占領した1936年5月5日から、最後のイタリア人行政官が連合国に降伏した1941年11月27日まで「高等弁務官」ではなく「副王及び総督」と呼ばれた)、次いでアディスアベバ公爵に任じられた。
 
エチオピアは[[1923年]]に[[国際連盟]]に加入していたため、エチオピア皇帝[[ハイレ・セラシエ1世]]は連盟に援助を要請した。しかし、連盟の加盟国間で意見が一致しない。アメリカとソビエト連邦はイタリアの行為を侵略と認めたが、イギリスとフランスはイタリアとの戦争を恐れ、イタリアの行為を承認。結局、連盟の採決はイタリアを処罰しないというものになった。
 
その後、イタリア人の入植が始まる。イタリアはアディスアベバをイタリア領東アフリカの首都とし、道路と農業プランテーション、軽工業を中心とした工場の建設を進めた。銀行制度や独自通貨発行、郵便制度なども整備した。しかしながら、特にエチオピア地域で反発が強く、植民地経営はうまくいかなかった。
 
== 第二次世界大戦以後 ==
約4年後の[[1940年]][[6月10日]]にイタリアが[[第二次世界大戦]]に参戦すると、周囲のイギリス植民地との戦いが始まる。一時はケニアやスーダンへイタリア軍の攻勢が行われ、1940年8月には[[イギリス領ソマリランド]]を占領した。1941年初頭よりイギリス軍の反撃が開始され、イタリア軍は劣勢となり、[[1941年]][[5月5日]]にはハイレ・セラシエ1世が首都に再入城。[[1941年]][[11月28日]]にはエチオピア内の全イタリア軍が降伏した。[[1943年]]には、連合国へのイタリアの降伏に伴い、既に名目上の[[皇帝]]となっていたヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が退位した。
 
敗北したイタリア軍のうち7000人は、北アフリカの枢軸軍が進撃してくることを当てにして[[1943年]]9月までゲリラ戦を展開した。
 
エチオピアは再度[[エチオピア帝国]]として独立、いったんイギリスの影響下で自治体制にあったエリトリアを[[1952年]]に連邦国家として組み込み、[[1962年]]から[[1993年]]までエチオピアの一州とした。イタリア領ソマリランドは連合国の占領を経て、[[1950年]]から[[1960年]]まで[[イタリア信託統治領ソマリア]]として[[信託統治]]下にあったが、[[1960年]]に[[イギリス領ソマリランド]]とほぼ同時に独立、統一国家となった。
 
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