「島津氏久」の版間の差分

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| 改名 =
| 別名 = 又三郎、三郎左衛門尉
| 戒名 = 玄久齢岳
| 墓所 = [[鹿児島県]][[志布志市]][[即心院]]<br />鹿児島県[[鹿児島市]][[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]
| 墓所 =
| 官位 = [[修理職|修理亮]]、[[越後国|越後守]]、[[陸奥守]]
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 =
| 氏族 = [[島津氏]]
| 父母 = 父:[[島津貞久]]、母:[[大友親時]]の娘
| 兄弟 = [[川上頼久]]、[[島津宗久|宗久]]、[[島津師久|師久]]、[[島津'''氏久|氏久]]'''
| 妻 = 正室:[[伊集院忠国]]の娘、[[佐多忠光]]の娘
| 子 = '''[[島津元久|元久]]'''、[[島津久豊|久豊]]、娘([[伊集院頼久]]室
| 特記事項 =
}}
 
'''島津 氏久'''(しまづ うじひさ)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]である。[[島津氏]]6代当主([[奥州家 (島津氏)|奥州家]]初代当主)、[[大隅国|大隅]][[守護]]。5代当主[[島津貞久]]の4男。母は[[大友親時]]の娘。[[川上頼久]]、[[島津宗久|宗久]]、[[島津師久|師久]]の弟
 
== 生涯 ==
[[足利尊氏]]より[[偏諱]]を賜い氏久と称す。父の貞久、兄の[[島津師久|師久]]らと足利尊氏に属し、南朝([[南朝 (日本)|吉野朝廷]])と戦う。[[応安]]元年/[[正平 (日本)|正平]]23年([[1368年]])に[[大隅国|大隅]][[守護]]となる。[[永和 (日本)|永和]]元年/[[天授 (日本)|天授]]元年([[1375年]])、[[室町幕府]]が九州の南朝勢力制圧のために派遣した[[九州探題]][[今川貞世|今川了俊]]が菊池氏討伐のために九州三人衆を招聘すると、[[大友親世]]と共に8月に着陣。了俊に着陣を拒んだ[[少弐冬資]]の説得を依頼されて冬資を招くが、了俊が冬資を謀殺する([[水島の変]])と、帰国して了俊と敵対する。
[[足利尊氏]]より[[偏諱]]を賜い氏久と称す。父貞久、兄師久らと共に足利尊氏ら[[北朝 (日本)|北朝]]に属し[[南朝 (日本)|南朝]]と戦い、[[観応の擾乱]]の影響で起きた[[足利直冬]]と[[一色範氏]]の抗争では範氏に従軍、[[正平 (日本)|正平]]6年/[[観応]]2年([[1351年]])に直冬軍と戦ったが負傷している。正平11年/[[延文]]元年([[1356年]])に南朝に転向、[[三条泰季]]と共に直冬方の[[畠山直顕]]の[[岩屋城 (大隅国)|岩屋城]]を攻撃、畠山直顕と大隅を巡って争った。その後北朝に帰順したようで、[[応安]]元年/[[正平 (日本)|正平]]23年([[1368年]])に父から大隅守護職を譲られている。
 
[[足利尊氏]]より[[偏諱]]を賜い氏久と称す。父の貞久、兄の[[島津師久|師久]]らと足利尊氏に属し、南朝([[南朝 (日本)|吉野朝廷]])と戦う。[[応安]]元年/[[正平 (日本)|正平]]23年([[1368年]])に[[大隅国|大隅]][[守護]]となる。[[永和 (日本)|永和]]元年/[[天授 (日本)|天授]]元年([[1375年]])、[[室町幕府]]が九州の南朝勢力制圧のために派遣した[[九州探題]][[今川貞世|今川了俊]]が菊池氏討伐のために九州三人衆を招聘すると、[[大友親世]]と共に8月に着陣。了俊に着陣を拒んだ[[少弐冬資]]の説得を依頼されて冬資を招くが、了俊が冬資を謀殺する([[水島の変]])と、帰国して了俊と敵対する、了俊の南九州制圧に抵抗し、翌永和2年/天授2年([[1376年]])に大隅守護職を解任された
了俊の南九州制圧に抵抗し、大隅守護職を解任された。永和3年/天授3年([[1377年]])に[[北郷義久]]の[[都之城]]を了俊の5男・[[今川満範|満範]]率いる南九州の国人衆に攻められるが、激戦の末に撃退した([[蓑原の合戦]])。しかし、了俊の働きかけで[[国一揆|国人一揆]]が結成、一揆の抵抗に苦しめられた。
 
同年6月、了俊の5男[[今川満範|満範]]が南九州の征討に向かい、[[肥後国|肥後]]の[[相良前頼]]や大隅・[[日向国|日向]]・[[薩摩国|薩摩]]の国人衆を招集しながら日向へ向かい、従弟の[[北郷義久]]が籠城した[[都之城]]を翌永和3年/天授3年([[1377年]])に包囲した。氏久はこれに対して9月に甥の総州家7代[[島津伊久]]と一緒に了俊に降伏、了俊・満範父子に属する[[南九州国人一揆]]の調略を行い、天授4年/永和4年([[1378年]])3月に了俊と決別、満範が国人一揆と共に都之城を再包囲すると[[志布志城]]から後詰に向かい、翌天授5年/[[康暦]]元年([[1379年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]と[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]の激戦の末に勝利([[蓑原の合戦]])、大隅[[姫木城]]も落として満範を都之城から追い落とした。
やがて甥の総州家7代[[島津伊久]]と一緒に北朝に降伏した。氏久は大隅守護に復帰することはなかったが、嫡男の[[島津元久|元久]]が大隅守護に復帰した。至徳4年/元中4年(1387年)、60歳で死去。
 
[[弘和]]元年/[[永徳]]元年([[1381年]])10月に再度北朝へ復帰したが、国人一揆の動揺につけこんで一揆勢の所領を侵略、相良前頼の南朝への寝返りもあって国人一揆を崩壊させた。至徳4年/元中4年(1387年)、60歳で死去。氏久は大隅守護に復帰することはなかったが、嫡男の[[島津元久|元久]]が大隅守護に復帰した。
[[馬術]]の達人であったと言われる。居城を[[東福寺城]]から[[清水城 (薩摩国)|清水城]]に移し、以後は島津氏の居城となった。
 
[[馬術]]の達人であっ馬術書『在轡集』を書いたと言われる。居城を[[東福寺城]]から[[清水城 (薩摩国)|清水城]]に移し、以後は島津氏の居城となった。
 
墓は[[鹿児島県]][[志布志市]]の[[即心院]]跡、[[鹿児島市]]の[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]跡。法名は玄久齢岳。
 
== 参考文献 ==
*『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 7 しな-しん』[[吉川弘文館]]、1986年。
*都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』[[都城市]]、2005年。
 
== 関連項目 ==
*[[南北朝時代 (日本)の人物一覧]]
*[[南方神社 (鹿児津氏市)]]
*[[東福寺]]
*[[橘木城]]
 
{{島津氏歴代当主|島津氏歴代当主(奥州家)||1368年 - 1387年}}