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[[Image:Uffizi_Giotto.jpg|right|200px220px|thumb|ジョットの像(フィレンツェ)]]
[[Image:Giotto_-_Scrovegni_-_-36-_-_Lamentation_(The_Mourning_of_Christ).jpg|thumb|200px240px|right|哀悼 1305頃 パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂]]
[[File:Giotto - Scrovegni - -31- - Kiss of Judas.jpg|240px|right|Il bacio di Giuda|thumb|同上、スクロヴェーニ礼拝堂]]
'''ジョット・ディ・ボンドーネ'''('''Giotto di Bondone''', [[1267年]]頃 - [[1337年]][[1月8日]])は[[ゴシック]]期の[[イタリア]]の[[画家]]、[[彫刻家]]、[[建築家]]。平面的・装飾的な[[ビザンティン]][[絵画]]の描写法から現実味豊かな[[ルネサンス]]絵画への先鞭をつけた。
 
'''ジョット・ディ・ボンドーネ'''('''Giotto di Bondone''', [[1267年]]頃 - [[1337年]][[1月8日]])は[[ゴシック]]期の[[イタリア]]の[[画家]]、[[彫刻家]]、[[建築家]]。平面的・装飾的な[[ビザンティン]][[絵画]]の描写法生前から現実味豊かな[[ルネサンス]]絵画へ巨匠として先鞭をつけた。名声は一貫しており、[[ジョルジョ・ヴァザーリ|ヴァザーリ]]によるは、([[ルネサンス]]期の当時から言えば)[[近代]]最初の画家という評価を初め、生前から一貫て巨匠としての名声を保っている。
 
[[フィレンツェ]]近郊ヴェスピニャーノ(現在の[[ヴィッキオ]])の出身。生年ははっきりしていないが1267年頃と推定される。[[ビザンティン美術|ビザンティン様式]]が支配的だった[[西洋]]絵画に現実的、三次元的な空間表現や人物の自然な感情表現をもたらした。

ジョットの絵画において描写人物は背後の建物や風景との比例を考慮した自然な大きさで表されている。こうした描写方法は当時の絵画界において描写法では革新的なもので、こうした点からジョットは「西洋絵画の父」といわれている。

[[アッシジ]]の[[アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群#サン・フランチェスコ聖堂|サン・フランチェスコ大聖堂]]と[[パドヴァ]]の[[スクロヴェーニ礼拝堂]]の[[壁画]]が代表的な仕事である。ジョットは優れた建築家でもあり、[[フィレンツェ]]の[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]の「ジョットの[[鐘楼]]」などを手掛けている。
 
== 主要作品 ==
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*[[ジオット (探査機)]] - ジョットにちなんで名付けられた。
 
== 日本語画集解説 ==
{{commons|Category:Giotto di Bondone}}
*『ジョット イタリア・ルネサンスの巨匠たち2. フィレンツェ絵画の先駆者』 ルチアーノ・ベッローシ
: ルチアーノ・ベッローシ、 野村幸弘訳、[[東京書籍]]〈イタリア・ルネサンスの巨匠たち2〉-小冊子、1994年
*『ジョット ドリーナ・バンデーラ・ビストレッティーニ美術叢書1』 [[京都書院]]、1995年
: サンドリーナ・バンデーラ・ビストレッティ、裾分一弘監修・尾形希和子訳、[[京都書院]]〈カンティーニ美術叢書1〉、1995年
==外部リンク==