「徳川徳松」の版間の差分

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'''徳川 徳松'''(とくがわ とくまつ、[[延宝]]7年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]([[1679年]][[6月14日]]) - [[天和 (日本)|天和]]3年[[5月28日 (旧暦)|閏5月28日]]([[1683年]][[7月22日]]))は[[徳川将軍家]]の世嗣で[[上野国|上野]][[館林藩]]主。[[江戸幕府]]第5代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の[[長男]]。母は[[小谷正元]]の娘[[瑞春院|伝]](瑞春院)]]。[[上野国鶴姫 (徳川家)|鶴姫]][[館林藩]]主は姉。官位はなし。
 
延宝8年([[1680年]])5月、父が叔父の4代将軍[[徳川家綱]]の継嗣となった為、2歳で家督([[館林徳川家]])を継いだ。[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]、神田の父の屋敷から[[江戸城]]西の丸に移り、神田邸の家臣団も付き従い、[[松平忠冬]]・[[堀田正英]]・[[内藤重頼]]・[[黒田直邦]]・[[岡田俊陳]]・[[稲垣重定]]・[[本庄宗資]]・[[堀田正休]]・[[川勝隆尚]]らが徳松に仕えた。[[老中]][[板倉重種]]も西の丸老中を兼ねて仕えた。
綱吉が[[徳川家綱]]の継嗣となった為、2歳で家督を継いだが、天和3年([[1683年]])、かぞえ僅か5歳で夭折した。法名は浄徳院殿霊岳崇心大童子。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[増上寺]]。
 
綱吉が[[徳川家綱]]の継嗣となった為、2歳で家督を継いだが、しかし天和3年([[1683(1683]])、かぞえ僅か5歳で夭折した。法名は浄徳院殿霊岳崇心大童子。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[増上寺]]。
 
「[[七五三]]」の祝いは、天和元年([[1681年]])11月15日に徳松の健康を願ったのが始まりだとされる。
 
== 参考文献 ==
* [[塚本学]] 『徳川綱吉』[[吉川弘文館]]([[人物叢書]])、1998年。ISBN 4-642-05210-0
 
== 関連項目 ==
* [[江戸幕府]]
* [[徳川将軍家]]
* [[館林徳川家]]
 
{{館林藩主|館林徳川家|2代|1680 - 1683}}
 
{{DEFAULTSORT:とくかわ とくまつ}}